SEOはGoogleとユーザーを繋ぐ翻訳作業

私は、人にものを伝えるということは、ある種の翻訳作業だと思っています。

ただ、この翻訳作業というものはたいへん骨の折れる仕事で、正確にものごとを伝えるのは難しくとても悩ましい行為だといつも感じています。

翻訳について語ろうとするときに私の頭の中に、まず真っ先に浮かぶのが明治時代に活躍した文明思想家の岡倉天心(1862〜1913)の「茶の本」の中の下記の節です。

翻訳というものは常に裏切りでしかない。あるいは、明のある作家が言ったようにせいぜい良くて錦の裏側でしかない。糸は織られているのだが、微妙な色や模様が抜け落ちてしまっているのである。とはいえ、つまるところは、偉大な指導で簡単に説くことのできるものなどありはしないということだ。

角川ソフィア文庫 訳:大久保喬樹

上の記述で見られる翻訳は、いわゆる外国語を他の言語に変換する作業としての翻訳行為のことを指していますが、私はある種、日常的なコミュニケーションを通して自分の中に存在する「何か」を言葉として翻訳する、あらゆる行為に通底するものだと思っています。

例えばそれは、日常的な言葉を用いて何か自分の頭の中の考えを他人に伝える行為や、指導者として自分の経験や知識を誰かに伝える行為に通ずるもので、それらを全てひっくるめて翻訳だと思っています。

岡倉天心の言うように「翻訳というのは常に裏切りでしかない」。どんなにうまく伝えようとしても、言葉にできない微妙な部分を伝えることは非常に難しい。

頭のなかの考えを誰かに伝える翻訳という行為において難しいのは、日常的に使われている同じ言葉を持ってしてもひとによって解釈の仕方が違い「微妙な色や模様が抜け落ちてしまって」伝わってしまうからです。

つまり同じ言葉を使用していても、その言葉が含み持つ意味や背景、それを理解するのに前提となる条件が個々で違うため、どうしても伝わり方に差が生まれてきてしまうのです。

これは本当にどうしようもない。

言い訳のように聞こえてしまうかもしれませんが、人それぞれでそもそもの土壌、育ってきた環境が違うわけですから仕方のないことで、どんないい種を撒いてもそれがきちんとした形で育まれるかどうかは本当にわからないのです。

たまに同じ種を撒いていても、頭の中のちょっと違う部分を刺激してあげたり、頭の中のちょっと違う部分に種を撒いてあげると育つケースもありますが・・・。

頭のなかは本当に不思議なモノで、全く同じ種を撒いてあげても種を撒く人が違うと育ち始めるといったこともあります。

例えば、私が種を撒いてあげても育たなかったのに、他の人が同じ種を撒いたときに育ちはじめると言ったケースです。

たぶんひとの頭の中は、私たちの理解できない領域があり、同じ言葉、同じ内容で伝えていても、その時の状況や、言葉としての音域(つまりは振動)、そこにたどり着くまでの刺激物の内容、メッセージを受け取るまでの前後の体験、タイミング、その人との関係性などその他様々な条件が複雑に絡み合い、一定の場所に種が撒かれるのだと思います。

それは決して視覚化できない複雑な領域であり、論理ではなく感覚に近い混沌としていて煩雑とした領域で言葉を超えたどこかで「そのもの」を理解するようなものなのかもしれません。

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ワインの元となるブドウは同じ品種の種を植えても、土の性質、そこで働く微生物、日照条件、気候、水、環境など、いわゆるテロワール(気候風土)によって味わいが変わると言われていますが、それに近いものかもしれません。

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私は職業としていわゆる翻訳家を生業としているわけではありません。

例え同じ国で生活し共通言語としての母国語を日常的に話していても、その人の体験や経験、頭の中にある事象によってモノの伝わり方が違うのですから、いわゆる職業を翻訳家としている人の苦労は、私の想像を絶するものだと思います。

作者の意図をできるだけ正確に汲み取り、言語間のギャップを埋め、微妙なニュアンスまでをも翻訳し、さらにそれを文化も環境も異なる場所で育った人々にわかるように翻訳し伝えていくわけですから、その苦労は大袈裟でもなんでもなく簡単に言葉にすることができないほど筆舌にし難い苦行なのかもしれません。

何でもかんでも簡単にし伝え、十分に伝えたようなそして分かったような気にさせる複雑な世の中

最近の風潮として、ものごとを何でもかんでも簡単に教えすぎたり、たやすく伝えすぎているような気がします。

そしてそこでやりとりされるほとんどの情報が物事を簡素化して伝えられているようにも思います。

つまり現場で伝えられる多くの情報は、よりたくさんの人に理解できるように複雑なものを単純化し、できるだけ余計なものを削ぎ落とし伝えていくわけですが、その削ぎ落とされた部分こそが物事を理解するにの大事な部分なのになぁと思うことがたくさんあります。

要はほとんどの方は、エッセンスを抽出し、ただ伝えているだけで、それは「ものを伝えている」というよりかはベルトコンベア式に「ものを流している」ような感覚にあるように思います。

もちろん見方によっては(歴史を遡ってみても)、わかりやすく伝えることで大衆を煽動し鼓舞させてきたのですから物事を単純化して伝えるそのやり方が完全に間違っているとは言い難い部分があります。

情報を伝達するにあたってエッセンスのみの抽出は誤解を伴う

ただ、このエッセンスのみを抽出し伝えていく作業には多くのケースで誤解が伴います。

そこには意図しない形での様々な解釈の仕方が用意されているからです。

それについて精通しているものであれば、阿吽の呼吸とは言わないまでも、ある程度の下地によって許容され、そこに含まれている言葉の意味を様々な角度から検証することができたり、深く考えを巡らせたり、言葉の意味を咀嚼することができますが、精通していないものの場合はそれをストレートに受け取ってしまい、うまく言葉の意味を噛み砕くことができません。

知識はもちろん必要ですがそれと同時に素地としての経験がないと、その周りの情報が存在せず、言葉の意味を考えたり、自分の体験と照らし合わせて検証することができないのです。

骨だけがあって肉がないようなものです。

では、それについて精通していないものはどうやってそれを理解するのかというと、その情報をとりあえず頭のどこかにこしらえておいて、後から経験することによってその周辺の情報を補っていくような流れになります。

その情報を受け取ったときはピンと来なくても後から経験していくうちに、「ああ、あの時の言葉の意味はつまりはこういうことだったんだ・・・」という体験がこれにあたります。

つまり、うまくことが運べば、後から「その通りだった」と気づいていく流れになります。

それが実体験や経験を伴うものだったら、なおさら血や肉となり生きていくうえで大事な糧とすることができます。

しかし、現代は、本質的ではない情報も一緒くたになって混じり、さも本質的な情報のような体をなして私たちのなかに流れてきやすく、せっかく順調にそれについて理解し始めているのに、雑多な情報に流れていってしまい、その筋から離れていってしまうことも多いように思います。

良い指導者に巡り合えた場合は、きちんと方向を修正してくれますが、その指導者でさえも本物の体をして近づいてくることがあり、それがさらなる混沌を生み出しているように思います。

本質的な意味において遠回りは存在しない

私は何か物事を学ぶのに、本質的な部分において遠回りなど存在しないと思っています。

一見遠回りをしているようでも、後から振り返ってみれば、やはりその道は必要なものだったと感じますし、物事をよりよく理解するのに必要な痛みや経験だったように思えるからです。

もちろんこれは勝者の論理で結果論だということもできますが、それでもなお結果として同じ場所にたどり着くものだとしても遠回りしてこその深みというものが少なからずあるように思います。

元大リーガーのイチロー選手も稲葉篤紀さんと対談したインタビュー(42歳の時)で下記のように話しています。

稲葉「みんな今そういう時代になってきてる 知識がすごくこう、ありすぎるというか」

イチロー「頭でっかちになる傾向はあるでしょうね 今の時代は たしかに」

稲葉「でも、最短で行ける可能性もあるじゃない。下手したら」

イチロー「無理だと思います」

失敗をしないで たどり着いたところと 全くミスなしで 間違いなしで そこにたどり着けないですけど、ついたとしても 深みは出ないですよ

単純に 野球選手としての作品が 良いものになる可能性は 可能性ですよ 僕はないと思いますけど あったとしても やっぱり 遠回りすることってすごく大事ですよ

だから僕、無駄なことって結局無駄じゃないっていう 考え方がすごい大好きで でも今やっていることが 無駄だと思ってやっているわけじゃないですよ

無駄に僕が飛びついているわけじゃないですけど 後から思うとすごい無駄だったって思うことは すごく大事なことだと思いますよ

だから僕合理的な考え方ってすごい嫌いなんですよ」

稲葉「遠回りしても良いから っていうか いろんな経験をすることが大事っていう」

イチロー「僕は遠回りすることが一番近道だと 信じて やってますけどね 今」

遠回りには遠回りなりの理解の仕方や解釈の仕方がある

例えば、東京から大阪まで行くのには飛行機、新幹線、電車、バス、車、自転車、バイク、徒歩など様々な手段が考えられるでしょうが、飛行機や新幹線で行けばあっという間に着きます。

ただ、たどり着くまでのスピードがいかに早かったとしても、たどり着くまでの出会いや体験、景色などを十分に楽しめるかといえばそれは必ずしもそうではないと思います。

徒歩で行けば徒歩なりの旅の楽しみ方があると思いますし、その過程で様々な人と触れ合ったり、話を聞いたり、よりそれについて静かにゆっくりと思いを巡らせたり深く理解していく可能性が考えられます。

それが人としての自然な営みなのかもしれないと近頃は考えるようになりました。

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要はそこにたどり着くまでの複雑な過程も含めて大事だと言うことが言いたい。

その「道」にこそ旨味となる成分が存在し味わう価値があるのに、その味の中心(ものごとの大事な部分)となるものだけを取り出し、それを単純化してまとめて伝えているだけでは物事の本質を十分に伝えることができない。

そしてそれを聞いてわかった気になるのもおかしいということです。

例えば、私が「SEOはGoogleとユーザーを仲介し適切なユーザーにコンテンツを探してもらうための翻訳作業です」。

と言ったとすれば、あるひとは「非常にうまいことをいう」と思うでしょうが、別のひとは「このひとは一体何を言っているのだろう」と思うことでしょう。

でもそれでいいんです。どこか頭の片隅に置いておいてもらえれば、今は分からなくても経験を積むうちにわかるようになってきますから。

一定の経験を有していないと理解できない領域というのは少なからず存在するのと思っています。

そしてこれは結果論です。

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先ほどの「茶の本」の一節に上記であげた文章に続けて下記のような記述があります。

昔の賢者たちは決して体系的な形で教えを語ったりしなかった。彼らは好んで逆説的な言い方をしたが、それは生半可な理解を恐れたからである。また、わざと愚か者のように語ることによって、聞く者にさとらせるようにしむけたりもした。老子自身、独特のユーモアをこめて、こんな風に述べている。「賢くない人は道(タオ)について聞くと大笑いするものだ。もし彼らが笑わなかったとしたら、それは道(タオ)ではないということだ」。

道(タオ)とは文字通りに通路ということである。これまで「Way(道)」「Absolute(絶対)」「Law(法則)」「Nature(自然)」「Supreme Reason(究極の道理)」「Mode(様態)」という英語に訳されてきた。これらいろいろの訳語はどれも誤りではない。道教徒は、思考の内容に応じて言葉の用い方を変えてきたからである。

言葉一つとってみても様々な解釈ができます。

通常は、前後の文脈によってそれを理解しようとしますが、その前後の文脈を持ち合わせていない場合はそのままストレートに言葉通りの意味で理解しようとします。

でもそれは難しい。

逆説的なようですが、簡単に物事を伝えようとするほど、結果として複雑になり、複雑に物事を伝えれば、結果としては単純になります。

もしかしたら、この言葉の意味も難しいかもしれません。

人によっては「あなたの言っていることはまるでわからない」というケースもあるかもしれません。

ただそれが真理だと思います。

誰もが簡単に情報を発信しやすい時代だからこそ・・・

インターネットが普及したことで、誰もが簡単に情報を発信することができるようになりました。

ただ、その情報のほとんどが素人の域を出ない情報であるということはインターネットを利用する上で理解しておく必要があります。

深い洞察に基づく情報や、確かな情報というのは検索エンジンで上位に表示されることはほぼなく、それは難しいのです。

検索結果として表示される検索ランキングはユーザーの人気投票による性質がありますから、より多くの人の目に触れてもらうためには、どうしても一般的なものとして翻訳し伝える必要性が生じてきます。

つまりは語弊を恐れずに言えば、一般に迎合し物事をシンプルにわかりやすく伝えるということです。

複雑なものはウケが悪く、単純なものほどウケがいい。

A=Bと明快なものほどよく、A≒Bというはっきりしないものは悪い。

現在の検索エンジンは、そのようにしてできています。

翻訳作業としてのSEO

SEOはGoogleとユーザーの仲介に入り翻訳する作業のことです。

もっと具体的に言えばSEOとは、Googleとユーザーの仲介に入り、ユーザーが意図する言葉で検索をした際に検索結果として表示されるようにサイトの構成を翻訳する作業のことです。

そこには痛みが伴いますし、その痛みを乗り越えていく必要があります。

本当に良い情報だけが表示されるようになってくれれば良いのですが、現在のテクノロジーを持ってしてもそれはまだ遠い先のことで実現していくのは難しいのかもしれません。

※この最後の一節を伝えたいがためにずいぶんと遠回りしてお伝えしました。

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