派手なものの中には「嘘」が含まれる

私は派手にやっている人を大抵の場合、信用しません。

もちろん例外はありますが、なんかしら派手に見えるひとや派手な手法に頼っている人の言うことを信じることはありません。

なぜ信じないのか?

そこに「嘘」が含まれる可能性があるからです。

たぶん、原理原則だと思うのですが、ある種の派手さを出すと必ずそこに「嘘」が生まれます。

それはビジネスを急激に拡大する時にもみられ、うまくコントロールしないと派手な部分だけが際立ってしまい、制御不能に陥る危険性があることは言うまでもありません。

経営者としての「才」は拡大にあらず

例えばちょっと事業がうまくいったからといって、必要のないほど華美で広いオフィスを構えたり、従業員をたくさん抱えてしまう経営者は多いです。

経営者としてそれが一種のステータスとなるからです。

売上規模はいくらで、従業員が何人いて・・・これらはわかりやすい指標であり、そこに経営者としての「才」があるように勘違いしてしまうのです。

拡大に次ぐ拡大。

そこに矜持を持ってしまうのです。

わからなくはない・・・わからなくはないです。

経営者は常に孤独ですから、まわりに部下を抱えることで安心感を得ようとしたり、従業員を多く抱えることそれ自体が社会的なステータスと錯覚してしまうことはわからなくはない。

売上規模や純利益率は経営者としての成績のようなモノだと一般的に言われていますから、そこを目指すのはわからなくはない。

でも、この混沌を極める世の中において、本当に大事なのはなんであるのかを今一度見つめ直す必要があるように思います。

派手なものの周りには、派手なものが集まる

あらゆる市場はすでに飽和状態です。

入り込む余地はないとは言いませんが、こと日本という国においては今ある市場でゼロからビジネスをつくりあげ上を目指すのは相当な運と努力、それにそれなりの巡り合わせが必要となります。

ちょっと目立った存在になると、その座を奪おうとあらゆる輩が狙ってきますし、その立場を守り続けるには実力はもちろんそれ相応の運や巡り合わせも必要となります。

>>>ウェブの業界で生き抜くためには実力や努力とは関係ない部分での運や巡り合わせが必要になる

それは私たちのような経営者の立場としてだけではなく、会社員の立場として働いていても同じことが言えると思います。

大きな企業に勤めている方であれば実感していただけるかと思いますが、例え会社内で新規事業(社内ベンチャー)を起こし、あなたの陣頭指揮によりその事業がうまくいったとしても、その事業が目立った存在になると、どこからともなく上層部のおじさんたちがその事業を奪いにやってきます(笑)

運良く、それを上手く庇ってくれる人がいればいいですが、大企業に勤めている方はエリート気質で出世欲が高い方が多いので、その手柄を我のものにしようと言葉巧みにすがってくることが多い。

つまりあなたの手掛けた事業がうまくいきだし、未来への道筋が見えた途端に、自分で新しいモノを作り出すことのできない保守的なエリート気質のおじさんたちはそこに旨味を見つけ、大抵の場合は、奪い、事業の手柄を横取りします。

そして事業の成果はそれを育てたおじさんたちのものとされ、本来手にするはずであったあなたの成果はなかったモノとされてしまう。

そう、皮肉なことに本当の敵は社内にいるのです(笑)

これはどこの会社でも同じでしょう。よく聞く話ですから。

倫理的な部分での非常識は大人の世界の常識でもあるのです。

日本はベンチャーにとって厳しい土壌である

今は高度経済成長期のようにやればやるだけ成果が上がるイケイケどんどんの時代ではありません。

たった一つのアイデアで、そしてそのあとの細かい実践の積み重ねによって派生して偶然に「新しい何か」が生まれる時代です。

この偶然による思わぬ発見を「セレンディピティ」と言いますが、本来予想していたものとは別の新たな価値を偶然見つけることで「新しい何か」は生まれてきますし、そのようにして事業は発展していきます。

だから、重箱の隅を突いたようなビジネスも多いですし、せっかくきっかけを得たとしても「なんらかの理由」で大きく成長する機会を失ってしまうケースも多い。

この辺りは、アメリカのように国をあげてベンチャーを支援する土壌があれば、もしかしたら変わってくるのかもしれませんが、日本の文化においてそれを期待するのは難しいでしょう。

日本はしがらみが強くベンチャーにとってはあまりにも厳しい風土だからです。

中国のような強かさもありませんし、勢いもありません。

とりわけ日本には、これからの時代を担う若者には夢がない方が多いと聞きますし、夢を語ることさえ馬鹿馬鹿しくなる時代だと言います。

そんな世の中においても、ある種の熱狂に包まれていれば別なのでしょうが、残念ながら熱狂というものも日本にはありません。

大人の事情なのか厳しさだけで人々を締め付け、何かを許し容認するという社会の器もなく八方塞がりのように思えます。

派手なものの中には「嘘」が含まれる

そんなやさぐれた社会で目立つためには派手さが必要になることが多い。

そしてその派手さの中には自ずと多くの「嘘」が含まれます。

言い方を変えれば派手に見せるためには「嘘」をつく必要があるのです。

実態以上に大きく見せたり、中身がスカスカなのに、外箱だけがどんどん豪華なものとなって人々を惹きつける必要が出てくるのです(スーパーに並ぶ弁当の箱が底上げされているようなものです・・・例えが悪いな(笑))。

「派手」と言うのは着飾っていると言うことであり、着飾っていると言うことはそれをよく見せようとしていると言うことであり、さらにそれをよく見せようとしていると言うことはそこに「嘘」が含まれていると言うことに他なりません。

中身【人で言えば性格】を変えるのは大変で困難を極めますから、いともたやすく外見【人で言えば身に纏うものや見せ方】を派手に変えてそれらしく振る舞うのです。

そしてそこには必然的に「嘘」が含まれることになる。

そして「嘘」が含まれると、情報を編集する必要が出てきますからどんどん新たな「嘘」が必要になるし、影響力を帯び大きくなるほどにそれを取り巻く「嘘」は「増えて」いくのです。

まるで嘘のテーマパーク、ファンタジーの世界です。

もちろん、中身が伴っていればいいのですが、実際は中身が伴っていないことが多くその実態はハリボテに過ぎないといったことが実に多い。

一般的には、最初はどんなにハリボテであっても、事業の経過とともに成長していくこともあるのですが、今の世の中を見渡してみるとやはりハリボテはハリボテで終わることも多い。

それが現実です。

「嘘」が含まれるから「派手」なものには疑いの目を持たなければならない

人間は本来地味な生き物です。

それを簡単に魅力的に見せるには、派手に見せる必要があります。

派手に見せるには存在感を際立たせるために着飾ることが手っ取り早い。着飾って人と違う雰囲気を身に纏わせるのです。

そして着飾っていると言うことは、自分を実態以上によく見せようとしていることになります。

さらに、実態以上によく見せようとしていると言うことは、そこに必ず「嘘」が含まれていると言うことになります。

これらは派手なやり方で急激に芽をだしたもの(事業や人)に多い。

90年代から00年代にかけて流行った「青年実業家」がいい例だと思います。

彼らはまだ、中身が伴っていないため、外見で勝負したりそれらしく振る舞います。

フェラーリ、ランボルギーニ、ロレックス、タワーマンション・・・

自分の能力を高価なものを買ったり、身につけたり、身の回りを固めたりして、さも本物のように見せかけて取り繕っていきます。

実態が伴っていればいいのですが、ほとんどの場合、ハリボテにすぎず、中身が伴っていないことが多いのです。

果たしてどれだけの人がいまだに活躍しているのか・・・。

だから、私は派手なもの(人や事業ややり方)に対して疑いの目を持つのです。

誰しもが少なからぬ「嘘」をついている

じゃあ、お前はどうなんだ?ってきかれたときは言葉に詰まります。

私も派手な服装をすることもあれば、派手に振る舞うこともあるからです。

ケースや気分に応じて高価なものを身につけることもあるし、そこに満悦することもあります。

「あなたとは違うんですよ」と(笑)。

完全に嫌なやつです。でもそうすることである種の矜持を保っているのだと思いますし、それについて自分でも自覚しています(おそらくほとんどの方が多かれ少なかれそう言う部分はあると思います)。

人間ですから、どんなに気を付けていても、そのような嫌な面は持ち合わせているし、そして私も同じように、時に他人とは違う自分を演じたり、そう振る舞うことに対して快感を覚えることがあります。

批判しておきながら、自らもそのように振る舞う愚かしさ。

人間とは複雑でおかしなものだと思いませんか。

・・・・

人は誰しも誰かと比較し、自分をよく見せようと、あらゆることで他人とは違うんだというプライドを持って生きています。

そして誰もが、自分は特別な人間だと内心思い込んでいます。

それは身に纏うものや行動にも及び、特別な人間であると思い込むが故にそれらしく振る舞う力が働きます。

だからこそ、嘘か本当かを見抜く「審美眼」を持つ必要があります。

要はそれが、本物かどうかを「見抜く目」を持ち合わせていなくてはならないのです。

本物か偽物かを見抜くためにはまず本物を知らなくてはならないのですが、それはまた別の話。

・・・・

本物を見分ける目が必要

もちろん、実態以上に見せたり装うことはネガティブなものばかりではありません。

今は中身がスカスカでも、本物を装うことで、本物とはなんたるかを知るきっかけとすることができますし、後追いでそれに中身を合わせていくと言うケースも少なからずあるはずだからです。

背伸びをすることでなりたい自分に近づけていく。

だから、それが悪いことばかりではありません。

時によく働くこともある。

だから、それが本当に良いのか悪いのかは今の私では判断することができません。

けれども、そのものに触れる私たちは本物をしり、審美を見抜く目を持つ必要があると思います。

そして、これからの時代は特に、本物を見分ける目が大切になってくるだろうと感じます。

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