何かを手に入れるということは何かを失うということ。現実と理想の違いについて

何かを手に入れるということは何かを失うことなのかもしれない。

そう思うことがあります。

思えば、私が学生時代の頃からそんなことを考えていた気がしますが、社会に出て大人になればなるほど、その思いは色濃いものとして現実の事象として、そこにあることのように感じます。

思い描いていた理想と手に入れた現実の違いについて

例えば、学生時代の私は「自由」を求めていたし、「自由」であることに憧れを抱いていました。

「自由」という言葉が何を意味するのかわからず、それが例え不確かなものであったとしても、私はそれを求めていました。

そして、その頃の理想といえば、一年中暖かな気候のリゾート地のプールで、デッキチェアに寝そべり、甘く冷えたトロピカルジュースを片手に仕事をするという、今考えれば、とても表層的でいて変な妄想だったように思います。

でも、それが当時の成功者としてのイメージでしたし、私にとって「自由」の象徴のようなものだったように思います。

私の周りもそういうものを求めていたし、実際それがある種のメタファーのようなものだとしても、それが成功者としてのあるべき姿だと思っていました。

ただそれが現実のものとなって、実際「憧れ」ていたことを手に入れられる環境を手にし、自らがそれを実践してみると、「何だこんなもんか・・・」といつも感じてしまいます。

例えば現実的なことを言えば、先ほどのプールサイドで甘く冷えたトロピカルジュースを片手に持ちながら仕事・・・ということを実践してみると、現実は、とてもじゃないけれども仕事なんてできる環境ではないということに気がつきます。

燦々と照り返す太陽によって周辺にある様々なものがディスプレイに映り込んでしまいパソコンの画面なんて見れたものじゃないし、何よりデッキチェアに寝そべりながら仕事をするなんてできたものじゃありません。

まず体勢が辛くなってきます(笑)。

プールサイドでよく目にするデッキチェアは寝そべることを前提としてつくられているので、普段私たちが日常的に使う椅子のような使い方をするとほんの数分で腰を痛めてしまいます(経験談)。

パソコンを使うにはある程度体をおこなさなくてはなりませんから、1時間もその体制を続けていれば身体中のあちこちが悲鳴を上げてきます(笑)

また燦々と輝く太陽によって照り返された周辺にある様々なものがパソコンのディスプレイに映し出され、様々な模様となって画面のあちこちにあらわれますから、とてもじゃないですが、まともに画面なんてみることができません。

例え、パラソルの真下であったとしても30分もすれば目がチカチカしてきたり、眉間にシワを寄せて画面を見続けるため、目が痛くなってきてしまいます。

さらに、現実的なことを言えば、冷え切ったトロピカルジュースを持つ手は確実に濡れていますので、そのままの状態でパソコンを触るとパソコンの中に水気が入り込んでしまいパソコンが壊れてしまうリスクがあります。

そして何よりプールサイドは仕事に集中できる環境ではありません。

そこにいればいるほど、パソコンも熱を帯びてきますし、プールによってはバシャバシャと水が飛んでくることもあるので電子機器にとってあまり環境も良くないのです。

そして多くの場合、プールサイドにあるテーブルやチェアはぐらつきますから、それが例えパソコンが自身の脚の上ではなくテーブルに乗せられていたとしても、不安定でグラグラする中でタイピングをし続けることになります。

長時間そうした無理な体制で仕事を続けるのは至難のわざです(カフェでも良くありますよね、そうしたテーブルとチェア)。

やはりパソコンは夏場であれば、キンキンに冷えた室内で、暖かいコーヒー(アイスコーヒーでもいいのですがアイスコーヒーは体を冷やしてしまうので温かいコーヒーがいいです)を片手に仕事をするという方が環境としては理想で、非常に適しているのです。

それに、やはりリゾート地は、誰もみな日常から離れ、心身ともに疲れ切った体を休めにくるところであり、周りもそうした開放的な雰囲気のため、一人だけ真剣にパソコンで仕事をしていると周りから浮きます。

「おいおい、ここはリゾート地だぜ!仕事のことなんか忘れてゆっくりしようぜ!」

海外に拠点を置く、ある程度立派なリゾートホテルになると、周りからそんな心の声が聞こえるような気さえしてきます。

紳士淑女であるのならば(常にそうありたいと思うのですが現実は難しいですね)、やはり周りを気遣う、旅行先の環境に配慮した優雅な振る舞いも見せるべきだと個人的には思うのです。

世の中のほとんどのものは人によって作られた勝手なイメージに過ぎない

じゃあ、何で人々はそんなイメージをし、それに憧れるのかと言えば、それは実用的かどうかは別として「イメージ」として非現実的で人々が思い描く「何か」を象徴しやすいからだと思います。

ようは知らないうちにわかりやすく置き換えられたイメージにすぎず、誰かが作成した創作物にすぎず、単なる「メタファー(隠喩)」です。

世の中に溢れる、私たちが普段から思い描くほとんどの物事がそうだと思います。

私は常々思いますが、テレビCMなんてファンタジーの塊であるし、語弊を恐れずに言えば嘘の塊です。

コロナ禍でもてはやされていること1:テレワーク

例えばテレワークで、家にいながら仕事をして、たまにその家に住む子供が映り込んで、笑顔で楽しそうに仕事をするというような映像を見かけることがありますが、実際にあれをやってみた方は子供に対して「・・・鬱陶しいな」と思うに違いありません。

現実はというと、あんなテレビCMのようにはいかず、仕事をしている時に、突然子供が泣き叫んだり、走り回ったり、子供が気になって仕事に集中できず挙句の果てには席を外してばっかり。

一旦糸を切られてしまうと、元いた場所に戻るまで時間がかかったり、余計な体力を消耗しますから、効率もよくありません。

テレワークで家で仕事なんて夢物語で、実際やってみると周りが騒々しくて、仕事なんてできたものじゃないと感じるはずです(その点独身の方はいいかもしれませんが、一見いい風に見えて、多分、それはそれでどんどん孤独になっていくと思います)。

コロナ禍でもてはやされていること2:ワーケーション

ワーケーションもいい例でしょう。

昨年からよく聞くようになったワーケーションとは「ワーク」と「バケーション」を組み合わせた造語で、旅行先でリモートワークをする試みのことを言いますが、実際、本格的にワーケーションを現場に持ち込める人なんて数がしれていることでしょう。

「旅行先」で落ち着いて仕事ができる人なんて、相当精神力が強いか、強い目的意識を持った人に限ります。

多くの場合は、気持ち的に流れていくし、流されていくでしょう。

「まあ、いいか・・・ここは旅行先なんだし」と言ったように。

本来、本質的に別々の含みを持ち対角線上にある、「仕事」と「休暇」を一緒にすることなんてできないはずで、やっぱり仕事は仕事、休暇は休暇とわけてしまった方が、気持ち的にもゆとりができますし、より、仕事が捗るように思います。

もちろんそうした試みもたまには必要だと思います。

本来別々のものを組み合わせたりすることで「遊び」が生まれますので、新しい「何か」が生まれやすくなりますし、時にそうした試みは功を奏します。

ただ非日常を、日常に取り入れてしまうと、それは非日常ではなく日常になってしまいますので、結果的にうまく働くことは少ないように思います。

コロナ禍でもてはやされていること3:移住

移住もいい例です。

コロナ禍になって移住生活が脚光を浴びていますが、たぶん多くのケースではうまくいかないと思います。

スピード重視の今の世の中において、そのやり方はいまだに非効率でやはり難しいのです。

作業的にリモートできても、物理的に離れていると、何かあった時に対応できないからです。

それに今はいいとしても、コロナが収束した後は、サラリーマンの場合は、移住者は真っ先にリストラの対象になると思います。

なぜなら、今の社会環境やテクノロジーでは仕事を完全にリモートに移行し、完全にリモート化することは難しいことだからです。特に日本においては、難しいと思います。

やはり今の社会環境やテクノロジーではメリットよりもデメリットの方が際立ってしまい、全てをリモートにすることは不可能なのです。

Googleは社員だけが住む街を作る計画

Googleは、コロナの最中本社を構えるカリフォルニア州マウンテンビューにGoogle社員だけが住む一つの街を作るという計画を立てました(計画は以前からありました)。

コロナ禍に詳細な計画が発表され、東京ドーム3.4個分ともいえる40エーカー(約16万m2)のエリアに、1850戸の住宅スペースの他、オフィススペース、競技場、広場、商業スペース、さらにカヤックなどが楽しめる湖のスペースを整備し自然豊かなGoogleタウンにするという構想です。

社員を近くに住まわせ、通勤ストレスをなくし徒歩圏内で移動できるようにすることでより仕事に集中したり、社員に豊かな生活をしてもらうことが狙いです。

もちろん、近年深刻化しているシリコンバレーの不動産価格の高騰による対応策でもあるわけなのですが、これは、あの世界的な規模のIT業界の重鎮ともいえるGoogleでさえ、完全にリモートワークができるわけではない、推奨していないということを意味しています。

もしも完全にリモートワークをよしとするのであれば、社員をアメリカ合衆国全土であったり、世界中に点在させた方がビジネス的にはやりやすいでしょうし、旨味があるにもかかわらず(何よりそうした方が地元の情報が集まったり、ある種のコネクションができます。ユダヤ人が財をなしたのも迫害されたユダヤ人が世界各地に住を構えることで独自のネットワークを持つようになったところにあると言われています)、あえてシリコンバレーと呼ばれているサンノゼの物凄く物価の高い地域に街をつくり、そこに社員を住まわせる。

やはり、今の時代、必要な時はすぐにでも顔を合わせて仕事ができる環境が必要なのだという判断なのだと思います。

どこまで行っても、同じ釜の飯を食うと言ったように帰属意識を高めなければ「質」の高い仕事はすることができないのです。

恋愛でもどんなにテクノロジーが発展してテレビ電話が普通になったとしても、物理的距離が離れていたら気持ちがどんどん遠くなってしまいますよね。それと同じことだと思います。

コロナ禍でもてはやされていること4:アウトドア

さらにもう一つだけ例をあげます。

今はアウトドアブームの最中ですから、テントを立てて焚き火を囲み、時折そこで仕事をするというイメージ映像が流れることがありますが、実際は仕事に集中できる環境ではありません。

イメージ的には自然に囲まれた中で仕事をするなんて、物凄く開放的で、様々なアイデアが湧いてきたり、すごく仕事が捗りそうと思えるかもしれませんが、現実はそんなことはありません。

冬場は寒くて手が悴むし、夏場は暑いしどんなに対策しても蚊などの虫がやたらめったらよってくるので、とてもじゃないですが仕事に集中できる環境ではありません(虫たちは光や水場を好みます)。

脚光を浴びたものは一過性の現象に過ぎない

ブームだ、流行りだ何だと言って、すぐにそれに飛びつくのは良くありません。

突如火がつけられたように、脚光を浴びたものはほとんどの場合、一過性の現象にすぎず、消費されてしまい、それが過ぎ去って仕舞えば後に残るのは焼け野原ともいえるような散々たる姿であることが多いからです。

情報が飛び交っている今の世の中、一度冷静になって立ち止まることも時には必要だと思うのです。

>>>なぜ流行が生まれるのか?時代を超えて長く愛されるものと時代を象徴する流行の違いについて

>>>派手なものの中には「嘘」が含まれる

>>>市場が熱狂状態にある場合、詐欺の発生率と複雑性が急激に増す

 

世の中はそれぞれの立場で「利」を絡め様々な方向に私たちを誘導していく仕組みで溢れています。

私たちはもうすでに、そしてこれからも生活している中で自然とそうしたメッセージを受け取って生活していきます。

私のように何もわからなかった大学生時代の私が、プールサイドでトロピカルジュースを飲みながら仕事をすることが成功者のイメージだったように(今考えると笑えてきます)なんだかファンタジーめいた色彩のイメージを自然と刷り込まれていきます。

そしていつも、それを現実のものとして手にした時、それは淡い空想であったことに気づかされるのです。

もちろん現実ばかり見すぎても、辛くなるだけですから、そうしたイメージで気持ちを掻き立てることは大切です。

私もそうしたイメージによって気持ちを高めて仕事をしていますし、それがファンタジーであることを頭の中にちらつかせながら、本当のことだと思い込み日々それに向かって突き進んでいっています。

まあ、いろいろ書きましたが、何が言いたいかというと、タイトルの通りで、何かを得るということは、同時に何かを失うことであるということが言いたいのです。

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