「黒はカラフルなパーソナリティがないと着こなせない」
これはイギリスの服飾デザイナーのジョンガリアーノの言葉です。
私はこの言葉に出会った時、酷く感銘を受け、非常に衝撃を受けました。
私は職業としてアパレル関係の仕事についているわけではありませんが、どのような業界であれ一流として行き着くところはやはりそこなのかと思ったからです。
衣服についてある一定の素地はあるにせよ(本当に基本的でいて基礎的なことだけです。マニアックなことについては知りません)、私はアパレル関係にはそこまで詳しくはないのですが、それでもこの言葉が意味しているものはなんとなくわかりますし、共感できるところがあります。
目次
「黒」はなぜ「カラフルなパーソナリティ」がないと着こなせないのか
「黒」という「色」は一見地味です。目立たない。
この言葉は平たく言えば、だからこそ「黒」という「色」を着こなすためにはそれを纏う「人物」や、黒であるべき「モノの背景」が大事になるということを暗に示しているのだと思います。
つまり、服それ自体が主張して目立ち異彩を放つのではなくて、あくまで主役は衣服として「黒」を纏う「人」にあるべきで、また纏う「人」にこそ光をあてるべきである。
そして、見た目の派手さや存在感はそれぞれの「人」が持つカラフルなパーソナリティによって表現されるものであるということです。
衣服はそれを纏う人それぞれのパーソナリティをより際立たせるものであるべきだ、という考えから生まれた深い意味を持つ言葉だと思います。
装うものはなんの変哲もない色で地味だけれども、何故かそこから醸し出される人としての魅力、それを存分に表現できる色が「
黒」であると表現してもいいかもしれません。
「黒はカラフルなパーソナリティがないと着こなせない」。ファッションデザイナーとして様々な見聞を持つ一流のジョンガリアーノがそう言うのですから、非常に説得力がある言葉だと思います。
しかもジョンガリアーノって、日常生活で使えるようなリアルクローズではなく、とても街着として着用できないようなデザイナーズ系の服をつくる人なので、非常に奇抜なデザインの服ばかり。そんな人物が、言う言葉ですからかなり重たい言葉だと思うし滋味深い言葉だと感じます。
服は道具に過ぎない
実際、人が身に纏う衣服は道具に過ぎません(「服は道具に過ぎない」という言葉が一般的に浸透しているかどうかは別としてファッション界隈ではそのように言われています)。
衣服はこれから会う相手にどのような印象を持ってもらいたいのかを印象付けるために身につけたり、身につけるものでマナーや教養、それに相手への敬意を暗に示したり、その人物が何者なのか、どう言った人物なのか、社会的立場はどの程度のものか、その人物の背景を暗にしめしたり、人の魅力を引き立たせるために纏う道具に過ぎません。
だから、衣服を纏う際の本来の目的は、まずはじめに「相手」やそれを身につける「場」を考えるべきで、どのような相手と、何を目的として会うのか、相手との関係性によって装いを都度かえるべき道具なのです(カジュアルな場では自分が主体であって自己表現のツールとして使っても問題ありませんが、公式な場では相手への敬意を示す意味があるので、相手次第で衣服をかえる必要があったり、装いにきちんとした細かいルールが決められています)。
例えばオフィシャルな場では男性であればスーツ(ジャケット・ベスト・パンツ(いわゆるスリーピース)、シャツ、タイ)の着用が求められるし、そこまでかしこまる必要のない場でも男性ならジャケットもしくはタイを締めることが最低限のマナーです。
さらには、もっと正式な場では男性ならスーツではなく、モーニングやタキシードを身に纏う必要があります。
それもモーニングは昼間、タキシードは夕方以降と時間帯によって使い分ける必要があったり、衣服に使われる素材やアイテムの組み合わせなどと(蝶ネクタイ、カフスなど)、とにかく非常に細かいルールが決められているのです。
衣服やアクセサリーは社会的立場を示すコミュニケーションツール
またいわゆる制服というものがあるように、衣服はあるグループに所属していることだったり、それを身につける人物がどのグループのどれくらいの地位にいるのか、人の地位や立場を表明するために用いる道具でもあります。
衣服は、そうした言葉を用いないコミュニケーションツールの役割もします。
現代ではずいぶんとカジュアル化が進みましたが、身につけるブランドによって相手がどのような人物であるのかを推し量っているのは同じことだと思います。
とてもわかりやすい例で言えば時計としてロレックスを身につけていれば、男性なら「ロレックスのサブマリーナか・・・」と言ったように、それだけでそれを身につけているものの権威が示されますし、オーデマピゲ(AP)でしたら、それなりの社会的立場にある方だと言葉を用いらずとも「象徴」として暗に示すことができます。
時計の世界で言えば他にもバシュロンコンスタンタンやパテックフィリップ、さらにマニアックな世界に行けば・・・と色々とあるわけですが、最上位クラスになると時計でも数千万円から億を超える時計も珍しくはありません(ただ多くのケースでは高価になる程、見た目の派手さが目立ってくるので日常使いはできなくなります)。
社会的な立場が高い人は、そうしたアイテムを時にそれとなく身につけることで、それだけ社会的に成功している地位であることを暗に示しているのです※。
そしてそうした社会的地位の高い方は、衣服を身に纏う雰囲気として活用したりさらっと着こなすので、衣服が人になじみ威厳が生まれ人物の魅力を引き立たせてくれるので、より格好良く見える。
だから例えお金を持っていたとしても20代の若い方が高価な時計を身につけても決してカッコよくはならないし、ネガティブな意味での成金と見られてしまったり、逆に違和感や身につけることでのダサさが目立つようになるのです(時には「この人何している人なんだろう・・・怪しい」と身につけているもので人に恐怖感を与えることさえあります(笑))。
この辺りはやはり年を重ねる意味があり、体に年輪を刻む必要があるのだと思います。
※特に男性ファッションの世界では時計そのものが社会的な立場を示すものとして扱われる意味合いが強いツールになります。逆に言えば男性ファッションは女性のように装飾品類が充実していないので、行き着くところは時計でしか差別化がしづらいのです。
衣服やアクセサリーはさりげなさが大事
特に時計などのアクセサリー類はそれ自体が単体で目立つと、パーソナリティや全体のバランスが崩れ途端にダサくなります。
あくまでも、身につける「人」のパーソナリティになじみ、それを身につけていることさえ忘れている雰囲気が大事なのです。
そのさりげなさが大事で、主役は時計(もしくは衣服)にあってはいけません。衣服は単なる道具ですから、本来、衣服を身に纏うという意味ではその人の魅力を存分に引き立たせるために身につけるものでなくてはならないのです(この辺りに特別でいて明確なルールはありませんが、金持ち界では(笑)暗黙のルールのような気がします)
王様でないのですから、下手に派手に誇示するのではなく、腕元でさりげなくそして静かにアピールしていることが大事で、それがいわゆるその人物を引き立てたりそこから醸し出される全体としてのエレガンスさにつながるのです。
年を重ねると、適度な宝石が似合うようになるのも、枯れた体にきらびやかなものを身につけることで全体のバランスがうまく調和するからなのだと思います。
衣服は相手への敬意を暗に示すコミュニケーションツール
衣服はこれから会う相手への敬意も込めるべきで、例えば相手にリラックスしてもらったり、相手への敬意を示したり、言葉を超えた雰囲気としていい印象を抱いてもらうためのコミュニケーションツールであり、相手に合わせて身につけるものでもあります。
だから、どんな時もできるだけこれから会う相手に合わせて衣服やアクセサリーを決める必要がある。
相手によく見られたいからと、身勝手に高価なものばかりを身につけて会うことはとてもじゃないですがスマートではありません。
なぜなら相手によっては、それを身につけることで相手に恐れや妬みを抱かせてしまう可能性がありますし、そうなってしまうと本来のコミュニケーションツールとしての意味合いがネガティブに働き、逆効果となってしまう可能性も出てくるからです。
特にビジネスの現場ではこれは気をつける必要があるようにおもいます。
いくらお金を持っているからと言って、またそれをアピールしたいからと言ってきらびやかな宝石が散りばめられたような時計を身につけて商談するのはマナーに違反しますし(もちろん相手がそれを望んでいたり、それを身につけることでコミュニケーションツールとして衣服や装飾品がポジティブに働いたり、相手に好印象を抱かせるものであれば高価なものを身につけてもいいと思います)、とてもじゃないですが、その「場」で、それを身につけることが相手への敬意を示しているとは思えません。
それよりも対峙する相手に合わせて、相手が恐れを抱かず、リラックスして話ができるような格好をするべきです(もちろんファッションは自由ですから、何度もいうようにカジュアルな場では自己表現の意味を持たせることも大事です)。
若い方は特にこれには注意が必要で(私も世間一般に見れば十分若いですが)、年長者もしくはそれが年下であっても相手を敬う必要があり、若い人ほど高価なものを身につけたがるのは分かりますが、そこはほどほどにおさえておいた方がいいと思いますし、経験上、相手には好印象を持ってもらいやすくなるように思います。
過ぎたるはなお及ばざるが如し、何事も程々が大事なのです。
若い方は実力や経験がない分、高価なアクセサリーを身につけることで実力や経験をカバーしたがる傾向がありますが、やはり、人間どこまでいってもそれを身につける中身、つまりはパーソナリティが大事で、たとえ高価なものを身につけてもパーソナリティが伴っていないと、相手に不快感を与えてしまうものです。
(ここでの話は、もちろん考え方にもよりますが)経験上それよりも年相応の時計または衣服を身につけ、パーソナリティで勝負した方が、印象はよくうつるように思います。
「場」をわきまえた格好をすることも大事
また衣服を身につける「場」はどんな場であるのかも考えることが大事です。
例えば、子供と公園に行くのにダイヤが散りばめられたギラギラの時計をしていると周りの人にはあまりいい印象を抱かれないでしょう。
それよりもスイス時計の代表格であるスウォッチだったり(スウォッチもカジュアルスポーティーな良い時計です)、カシオのGショックだったり、カジュアルな時計を身につけている方が場になじみますので、周りの人にいい印象を抱いてもらいやすいと思います(もちろんギラギラしている時計を身につけている人が集まる公園だったら場になじみますので問題ないでしょう。そんな公園あるのかは分かりませんが(笑))。
あくまでそれを装うのに適している場であるのか、「場」を考えた上での道具としての選択が必要になります。
公園できらびやかな時計を身につけている方は、おそらく周りとの差や他者との違いを見せる自己表現のツールとして身につけているのでしょうから、おそらく本人はとてもいい気持ちなのでしょうが、周りはそうは見ていません。
この辺りは年齢を重ねるほどになんとなく意味がわかってきます。多くのケースにおいて、若い頃はパーソナリティが薄いためそうしたことでしかパーソナリティを表現することができないし、パーソナリティが薄いからこそ、高価なもので違いを見せつけたり、パーソナリティを濃く見せていくことしかできないからです。
自己主張を抑える本質的な意味は、言葉で伝えても理解できず、つまりはある程度の年齢に達しないと分からないものですし、どうしてもそうした物事の背景が見えてこないものです。
いずれにせよ、年齢を重ねるとパーソナリティが濃くなる傾向にありどことなく「人」自身に迫力が生まれてくるので、逆に自分を抑えこむ必要が出てきます。
だから相手に合わせて装いをかえ印象を操作したり、足し算ではなく引き算をしていく必要があるのです。
衣服はTPOによって使い分けるもの
衣服は、TPO(Time=時間 Place=場所 Ocation=機会)によって使い分ける、それが本来の道具としての服の使い方であり役割です。
もちろんファッションは自己表現のツールとしても使われますから、一定のルールを守りながらも、色味や素材やデザインなどのディテールによって差を生み出していくことは自由です。
カジュアルな場ではデニムにシャツというラフな格好でもいいし、衣服を自己表現のツールとして使っても全く問題はなく、現在ではそれが主流であるように思います。
でも、どのような場面であれ服が主張しすぎるのはあまり良くありません。
主役はあくまでその人物であるべきで、衣服はその人物の背景に潜むべきなのだと思います。
こんなこと言っておきながら、私もカジュアルな場面ではそれ自体が主張する服を好んで着用したりしますが(笑)。
色にも意味がある
話を少し戻します。
礼服として「黒」という色が使われますが、素材を別にすれば、その「黒」は色ののり方によってそれが高級であるか、そうでないかは分かれてきます。
人にしても物にしても、「まがいもの」ばかりで本物に出会う機会は非常に少なくなってしまった世の中なので、私も実際に目にしたことはありませんが、着物などに使われる反物の「黒」は本当に繊細でありながら深い色合いの「黒」であると聞きます。
本当に最高品位の「黒色」はその色味としての「黒」を保ちながらも「真っ黒」というよりかは、何かその内側に特別な色味が隠れているかのような深みのある「黒」であるそうです(確かその色を表す「色の名前」があったかと思いますが、忘れました)。
例えばそれは藍染でいう「褐色(かちいろ)」がその色の背景に紫の色味を帯びるように、何度も何度もその上に色を塗り重ねて、手間暇をかけて出来上がった末にあらわれる、非常に奥深い色味なのだと思います。
ちなみに、藍染には「褐色(かちいろ)」とは対照的に「甕覗(かめのぞき)」という色もあります。
甕覗(かめのぞき)は藍染の中で一番薄い色で、これまた私は本物の「甕覗(かめのぞき)」を拝見したことはありませんが(偽物だったら何度もあります)、藍甕をのぞく程度に、さっと染めた薄い色」のことを言います。
もしくは「水の入った甕の、水面に映った空の色を覗き見た色」と表現することもあるようです。
ただし、本来の(本物の)甕覗(かめのぞき)は、何度も何度も色を重ねた上で生まれるほのかに薄い色とも言えない色のことを言います。
さっと染める色とありますが、年老いて元気がなくなった瀕死の藍甕で、何度も何度も色を重ねた末にようやく浮かび上がってくる薄い青色と表現してもいいと思います。
黒はその人物の本質があらわれる色
一見地味な色として見られ違いを生み出しづらい「黒」を際立たせるためにはディテールやらものの背景が必要です。
それはもちろん衣服のデザインも大事ですが、それよりも大事なのはそれを纏う人の経験だったり器だったり人間力のようなものなのかもしれません。
それまでの経験や知識の集積。ものの背景で言えば素材やらデザインとなるでしょう。
そうした細かい部分でのディテールの組み合わせこそが大事であり、それこそが着こなすことであり、パーソナリティを表すこと。
そして、なんとも言いようのない全体的なエレガンスさにつながっていくのであろうと思います。
Tシャツとジーンズという普通の格好をしていても、そこから醸し出される力のようなものを感じられる人を街中でたまに見かけますが(本当に少ないですが)、そういうシンプルな装いの中に「品(ひん)」があらわれるからこそ、本物が本物である意味があるのだと思います。
建築家のミース・ファン・デル・ローエも「神は細部に宿る」と言っていますし、サン・テグジュペリも星の王子様で「完璧とはこれ以上加えられない状態の事ではなく、これ以上削れない状態の事である」と言っています。
非常に逆説的な表現だと思いますが、それが真理だと思います。
削って無駄なものを削ぎ落とした上で最後まで残った「もの」はそのものの本質が色濃く現れるのです。
黒を美しく着こなすためにはパーソナリティが必要
「黒はカラフルなパーソナリティがないと着こなせない」
いろいろと言ってきましたが、ジョンガリアーノがいうこの言葉の意味は言葉尻だけを捉えればそのままです。
「黒」は地味であるがゆえに着こなすのは難しく、人物がそれぞれにもつパーソナリティがないとどこまでも地味になる。
言葉の表面だけを受け取れば、そういう意味でしょう。
「黒」を美しく表現するのはあくまで衣服を纏う人次第であり、黒を纏う人のパーソナリティ次第である。
翻って主役は常に衣服ではなく「人」であるべき・・・ジョンガリアーノはそういうことが言いたいのだと思います。
衣服は所詮、黒子のような役割であり、その人本来の美しさを際立たせるもの。
だからこそ、「黒」という世の中で一番濃い色は、シンプルであるがゆえにその人の本来持っている美しさだったり、内面を際立たせてくれる。
一見すると地味に見えるシンプルな色だからこそ、まるで夜の闇に浮かび上がるようにそれを纏う人に焦点が当たり、よりそれを纏う人の内面に意識が向かう。
簡潔に言えば極限までに計算された衣服の美学※。
ジョンが言いたいことは(馴れ馴れしい(笑))、そういうことなのだと思います(ジョンガリアーノのことを普通ジョンとは言いません)。
SEOも所詮味付けに過ぎない
なぜ私がこの言葉に感銘を受けたか。
すでにお分かりだと思いますが、SEOでもマーケティングでもたどり着くところは結局は同じようなところだと思うからです。
私は常々・・・
SEOはちょっとした最後の味付けに過ぎず、料理で言えば全体の味をととのえる調味料のような働きをするもの。
調味料を使いすぎた料理がまずくなるように、いわゆるガチガチにキーワードで固めたSEO対策が主役であってはならないし、主役となるのはいつでもコンテンツであるべきだ。
と言うことを、手をかえ品を替え、例え話を使ったり言い方を変えて伝え続けています。
>>>SEOはコンテンツの味を整える調味料のようなもの。役に立つコンテンツを作成することが高みに昇る術
つまりどんな素材を扱おうとも、それを扱う人物のパーソナリティ次第だということが言いたいのです。
全く同じ材料を使ってパスタをつくっても、プロと素人では明らかに味の差が生まれます。
どちらがおいしいと思うのかはその人の、それまで培ってきた経験によって変わってくるものだと思うし、それぞれが求める味の違いや気分の違いかと思いますが、面白いことに全く同じ材料を作っても違う味になるのです。
その違いを生むものは素材の扱い方であり、知識や経験の集積であり、つまりは技術の差(ディテールを生むものの差)ということになります。
下処理の違い、火加減の違い、刻み方の違い、同じ素材でも細部にまで突き詰めて考えればたくさんの「違い」を生み出すことができます。
同じものでも扱い方次第で何にでもなる
私は今回ジョンガリアーノの「黒はカラフルなパーソナリティがないと着こなせない」という言葉から思い起こされることだったり、そこ言葉から連想されることをコンテンツとして落とし込んでいますが、同じ「素材」を扱っても出来上がるコンテンツは違ったものになるはずです。
もしかしたら結論は同じものになるかもしれませんが、中身やそこに達するまでの道筋は違うものになります。
そしてそこに生み出されるコンテンツにはある種のパーソナリティが含まれるものだし、パーソナリティが見え隠れしないものはそのコンテンツをうまく扱えていないしふさわしくないということになります。
今回、私が真に伝えたいのはそこの部分です。
同じ素材を使っても、扱う人次第で、その色は変わるものだし、違ったものになる。
それがコンテンツを作る楽しさであり、製作者としての矜持なのではないでしょうか?
今のコンテンツは、いささかパーソナリティが見えないコンテンツばかりが蔓延し過ぎているような気がします。
「一般論」としての「何か」ばかりで、パーソナリティが見え隠れする「尖ったもの」が少なくその色が全然見えてこない。
つまらない。
グーグル検索に使われているアルゴリズムはいつの間にか、当たり障りのないものしか表示されないコンサバなものとなってしまいました。
上位に表示されるコンテンツもどっかで見たコンテンツの焼き直しのコンテンツばかりで、目新しいものは何もないと思います。
ただコンテンツを作っている人だったり、コンテンツを扱う媒体が変わっただけで、本質的には言っていることは同じ。
本当につまらない世界になってしまったと思いませんか?
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