どの番組だったかは忘れましたが、以前、明石家さんまさんが芸能界で生き残るためには何が必要かと問われた時に下記のように答えていました。
「せやなぁ・・・品があることやな。品がないとダメやねん」
確か、何かドキュメンタリー風のバラエティ番組だったかと思います。明石家さんまさんが愛用車(確か黒のベンツ)を運転中に発言した一言だったと記憶していますが、定かではありません。
この言葉がなぜか頭の片隅に残っており、ことあるごとに私にこの言葉を思い出させます。
「品(ひん)がある」こと。
これは芸能界だけではなくネットの世界、ビジネスの世界にも通じるものがあると思います。
ひいては何かを成し遂げ続け、生き残り続ける上で品があることは想像以上に大事な要素です。
人は必ず誰かと関わっており、誰かの仕事の上に今の生活が成り立っている
人は必ず人と仕事をします。
つまり今している仕事の延長には常に誰か人がおり、皆それぞれに何かを犠牲にしながら一生懸命働いてくれているのです。
例えば、あまりこういう話はしたくはないのですが、私ははたからみれば自由な暮らしを手に入れていると思います。
実際、今は仕事をしたい時にする生活ですし、朝起きる時間も、夜寝る時間も自由です。
仕事をする場所も特に決まっていませんし、インターネットに繋がる環境があれば、仕事仲間とメールやスカイプ、ZOOMなどで連絡を取り合い淡々と進めていくことができます。
そして、書きたい時にものをかき、自分のペースで仕事をコントロールし、確かに制限はあるものの基本的には好き勝手に暮らしていくことができています。
今現在、特にお金にならないこうしたブログも好きな時間に、思いついた時に書いていますし、ある意味では気が向いた時に書くような生活を送っています。
世の中的には広く名前が知れ渡っているわけではありませんし、芸能人のように顔が世間一般に公表されているわけでもないので、どこにいっても話しかけられるというような面倒なこともありません。
好きな時間に好きなところを散歩し、好きなものを自由にみて歩き、仲のいい友人たちと食事を共にし(今はコロナ禍なのでできませんが)、妻と可愛い娘と一緒に過ごす時間もあります。
だからこそ・・・
ああ自由だ。自由こそ最高だ。
そう言い切ることは簡単です。
けれども、ここを勘違いして、全て自分の力だと思ってしまったり、今の状況にあぐらをかき俺はすごいんだと思ってしまうと、全ての歯車は狂っていきます。
これを間違ってしまうと、本当に何もかもがうまくいかなくなるのですす。
ちょっとうまくいったからって、つけ上がるようでは誰も人はついてきませんし、そこに品を感じることはできません。
品があるとは何か、一つの見解
一般的によく耳にする言葉「上品(じょうひん)」とは
言動や顔つきなどに高い品格が感じられて好ましいこと(さま)。高尚で洗練されている様。
国語辞典より
の状態のことを言います。
そして、品(ひん)があるとは辞書で調べると
人物の行動や雰囲気、装い、あるいは物の風情や佇まいなどに、優雅で洗練された印象を感じる様を意味する表現
Weblioより
とあります。
要するに「品がある」とは、他人に不快な思いを感じさせず、雰囲気として磨き上げられ洗練された様のことだととらえていくとよくわかると思います。
はたから見てそうした状態や姿を醸し出している様を言葉で表現すると「品がある」ということになります。
多くのケースでは、失敗を繰り返し、様々なことを経験していく中で謙虚な姿勢を学び「品(ひん)」の良さを身につけていきますが、突然何かの力でステージに押し上げられてしまった人や、経験が足りない人は「品(ひん)」を備えることなく有名になってしまいます。
YouTuberなどを見ていても思いますが苦労をせず、突然スターダムにのし上がってしまうと、それが自分の実力だと勘違いしてしまい、人を見下すようになってしまっていくように思います。
「俺は簡単にここまでこれたのになんでできないの?」
「誰にもできないことを成し遂げた俺はすごい!」
完全なるおごりです。
一発屋芸人の心理と一緒で、島田紳助さんの言葉をかりれば「たまたま時代があっただけやねん」です。
また一見すると自分の力だけで成り上がったような人たちにもこれらの「品のなさ」が見られる傾向があります。
つまり、苦労し過ぎて、手に入れた「成功」というのもある意味「品のなさ」を生む傾向にあります。
やはり同じように、自分の力に酔い痴れ実力以上のものだと過信してしまったり勘違いしてしまうのです。
「これだけやったのだからうまくいくのは当然だ」
「俺はこうしてここまでこれた。だからお前らもこれだけやれ!」
完全なる時代錯誤です。
こうした言動は品があるとは言えませんから、何か特別なきっかけを得て、品性を獲得しない限りは、おそらく5年後、10年後業界から干されてしまっているのではないかと思います。
もちろん、努力を否定しているわけではありません。
努力が成功の一つの要素であることは間違いありませんが、現実はより複雑であり残酷で、努力したからと言って必ずしも物事を成し遂げられるわけではありません。
実際、寝る間を惜しんで努力している人なんて星の数ほどいます。
けれどもできない。うまくいかない。
不条理に思えるかもしれませんが、いくら努力しても何か「歯車のようなもの」がうまく噛み合わないと「こと」がうまく運ぶことはありません。
「運」や「巡り合わせ」について
断定はできず、例外もあるかと思いますが、本当のことを言ってしまえば、ビジネスで成功している人の大半は「運」や「巡り合わせ」に過ぎないと思います。
たまに天才的なセンスをお持ちの方もおりますが、多くの場合、現場で経験をしていく中で何かをきっかけとして、ステージにたつ機会を偶然得て、結果としてたまたまうまくいったというのが本音のところだと思います。
あまり語られることはありませんが、それが真実だと思います。
実際、私もそうだと思います。
振り返れば思い当たる節がいくつかありますが、何かきっかけを得て、それを運よく掴むことができただけ。
本当にそう思うことがあります。
そして、実はたまたまうまくいっただけなんじゃないかと思うこともあります。
もちろん努力はしました。
今の生活ができるように計画し、誰よりも努力してきましたし、めげず、諦めず、あらゆる方向性を探りながら寝るまを惜しんで懸命に働いてきました。
そして多くの犠牲を払ってきました。
ただ、それでもうまくいく人といかない人がいる。
不条理です。
だから、私の場合は何かしらの「歯車」がちょうどよく噛み合い、たまたまうまくいっただけなのではないか、そう思うことがあります。
そしてそう思うからこそ、今度は私が社会に対してしっかりと恩を返していかなければならないと思っています。
それが当サイトを立ち上げた理由の一つでもあります。
常に不条理で不安定な世の中
世の中は不条理で常に不安定です。
生きることは時に苦痛を伴う。
そして、誰かの仕事の延長には誰かの仕事があり、誰かの犠牲により成り立っています。
その犠牲は、時代が勝手に決めるもので、人の思いや人の感情が大きく関わっています。
少しでも上に立つことができたものは、このことを深く考えなければいけない。私はそう思います。
だから私は人を見下すことなんてできないし、俺はすごいんだと言ったような全治全能の神のような発言を公に向かってすることは私にはできません(もちろん私も人間ですから、憂さ晴らしとして時にそういう言動はします。ただそういうことを言うのは親しい仲間内だけで、さらに場所も限られ飲み屋での話に限定されます)。
そもそもそんな思いは、思っていても他人にひけらかすものではなく、自分で勝手に思っていればいいだけです。
所詮自己満足に過ぎないのですから(ましてや上を見ればキリがありません)。
誰かの自由は誰かの犠牲によって成り立っており、少しでも人の上に立つものは、もしくは人の上に立つことができたものは、その犠牲に対して救いの手を差し伸べなければならない。
私が以前の記事で「自由には責任が伴う」と言ったのは、こうした背景からでもあります。
>>>書くことからはじめよう!眼を養い、手を練ることで技術は習得される
今の時代、誰が犠牲になるのかなんて正直わかりません。
時代は大きなうねりとなって私たちを飲み込んでいく勢いですし、そのかげではほくそ笑む人々の姿も時折ちらつきます。
その多くに「カネ」が関わっており、人生の一部の意味しか持たない「カネ」のために人々は常に翻弄されてしまっています。
少ない人のために多くの人が犠牲を払う。
資本主義は欠陥だらけのシステムです。
・・・
もちろん今お話ししたこと以外にも、「自由」と「責任」について、それが意味することはたくさんあります。
それにおいてはおいおいお話ししてければいいと思っています。
気が向いたらね。
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