謎に包まれたものを喜ぶ人が少なくなっている時代の流れと物事の本質について

今の世の中、なんでも「手軽」で「簡単」に「素早く」がブームになっています。

一言でまとめれば「時短」ということになるのでしょうか。

現代人はそれだけやることが多く、時間に追われているということを象徴しているのかもしれません。

面倒である状態を知った上でそれらを時短になる便利なものとして使いこなすのはいいと思います。

ただ本来ある状態、面倒な状態を無視して便利さを知ってしまうとそれはまた別の問題が生じてくるように思います。

また、なんでも「手軽」で「簡単」に「素早く」が一般化し、それが仕事にまで波及すると話は別となります。

本来必要となる「基礎」や「下地」をすっ飛ばして、その上に頑丈な建物を建てることはできないからです。

どんなに見せかけの建物が素晴らしく目にうつっていても、それを支える基礎がガタガタであれば崩れるのも早いし、仕事をする上で本質的なことからどんどん遠ざかっていくように思います。

世の中には説明できないことが多い

そしてそれは言葉にもあらわれているように思います。

つまり説明できないこと、説明しようのないことをわかりやすく体良く簡潔にまとめ、それを伝えられた人がわかったような、そのことについて理解したような気になっている。

そしてそれは簡単にできると思いこむ。

だから道をふみはずす。道をあやまる。

わからないことをわかった気にさせる。

本来難しいことを簡単にできるように思わせる。

その結果、本質的なものを見る目は失われ、表面的でいて切り取られ編集されたものに人は飛びつき、喜び、けれど迷い、神経をすり減らし、やがて消耗していく。

かなりおかしな世の中になってきているように思います。

そして今はそんな世のまっただ中のように思います。

わからないことをわかったような気にさせる世の中

世の中には言葉では説明できないことがたくさんあります。

なぜ生きているの?とかなぜ死んでいくの?とか。

本来、それを言葉で説明することなんてできないし、理解することも難しい。

言葉の範疇を超えた理(ことわり)としか言いようがありません。

また言葉で伝えられることには限界があり、これらはそれを象徴していることがらのように思います。

けれども、本来言葉にし理解することのできないそれらを言葉でそれらしく装飾し、わかったように気にさせる世の中、それが現代だと思ってください。

わかっていないことをわかったような気にさせる、わからないことを簡単に理解したと惑わされる世の中なのです。

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薬の成分は、なぜ、それがどのようにして人間の体に有効成分として働くのか(作用機序)ということが科学的に説明のつかないことも多いと言います。

現在主だって用いられている薬の成分は、西洋医学的観点から化学合成された成分ももちろんありますが、そのほとんどの成分がもとを辿れば植物由来の薬効成分です。

いわゆる錠剤などの薬は、それらの成分を化学合成したり、抽出し純度をあげたりしてピンポイントで人間の体に効能として効いていきます。

そして、錠剤を用いれば狙った部分に効果をもたらすため、すぐに効能として症状の緩和がもたらされることが期待できます。

つまり西洋医学では「部分最適」からのアプローチにはじまり、やがてそれが「全体最適」に及び症状を治癒していくという考え方をします。

一方で、漢方などで使われる植物は語弊を恐れずに言えば純度を上げるのではなく雑物を含んだ状態で処方されます。

そして、漢方の考え方では人間の体を西洋医学的な考えに基づき臓器や細胞を切り離して考えるのではなく、それらは人間という体の中の一つのシステムに過ぎないと考えるため、全体的な調和をすることで患者個人を治癒することを目指しています。

つまり東洋医学では体のバランスを整えることで人間が本来もつ自然治癒力を高めたり生体機能のバランスを整えることを重視します。

言葉を言い換えれば「部分最適」からのアプローチによる治癒ではなく「全体最適」からのアプローチによる治癒を目指しているということになります。

だから、人間の体に薬効成分が有効的に効いていると感じるには、それなりの時間がかかります。

※東洋医学と西洋医学の詳しい経緯や説明は省きますが、これらの違いは自然をどう捉えるのかという自然哲学の違いがあると言われています。

西洋医学は人間の体の中で起こる複雑な事象も徹底的にそれらを構成する要素ごとに分割して調べればそれらを構成する要素全体が理解できるはずだという考え方に基づいており、いわゆる「要素還元主義」的な立場に立って物事を考えています。

一方で東洋医学では臓器や細胞を個別に分割した人体要素よりも、個人を全体的なシステムとして捉える「全体システム主義」的な立場をとっています。

そうした考え方の違いや立場の違い、捉え方の違いを知っておくとこの辺りの話がよく理解できると思います。

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もちろんそのような成分を含有する植物は人間のために、有効成分をつくっているわけではありません。

自らの命を守るために植物の中で成分がつくられていると考えられ、生物学的な視点から言えば「種を保存するため」様々な成分が植物の中でつくられていると考えられています。

例えばコーヒーの中には人間にとっては眠気覚ましやリラックス効果をもたらすカフェインという成分があります。

これはコーヒー豆の中に含まれる成分ですが、コーヒーの木になる種が地面に落ちて芽生するときに大量のカフェインを周りの土中に放出することで他の競合植物の芽生を阻害させ、他の植物よりも有利に生存することができるようになるために生成していると考えられています。

つまり、植物は自分が周りの植物よりもより有利な環境で生き残るためにカフェインを生成しているということになります。

しかし、カフェインは毒性があるため解毒作用の弱い赤ちゃんや動物、昆虫にとってはそれは猛毒として働く危険な成分ですし、成人した男性でも一度に10グラム以上のカフェインを摂取すると体の中の解毒分解をする酵素がうまく機能せず危険状態に陥ると言われています。

実際カフェインを多く含む飲料水を一度にたくさん摂取してしまうことで死亡してしまった事例も出ています。

ただカフェインは使い方によっては人間にとっては痛みをやわらげたり炎症を鎮める効能があるため古くから鎮痛薬として使われてきたことも事実です。

カフェインについては、科学的な説明を用いれば、細胞の中にある痛みを誘発したり眠気を引き起こすアデノシン受容体にカフェインがくっついてアデノシンの作用をブロックしてしまうため様々な症状を緩和したり引き起こしたりする成分であると言われています(ただし同時に利尿作用があったり、胃液を分泌させる作用もあります)。

つまり、そうした成分がたまたま、本当にたまたま人間にとって有効成分として働いているのに過ぎません。

SEOに関しても、それがなぜそうなのか、どうして効果的に働くのか、説明できないことは多い。

ただ、結果としてそれが有効成分として働くし、うまく働いているとしか言いようがありません。

もちろんSEOはもともとは人間がつくり出したテクノロジーに過ぎませんが、現在は複雑化しており、またスピードも早く現場で起こる現象それを全て言葉で説明しようとすると道をあやまるように思います。

誰もがわかりやすく味付けされた画一的な答えを求める世の中について

小説家は、物語を紡いでいきますが、文学的な価値を持つ物語は、言葉では到底説明できないことを物語全体を通して雰囲気として伝えています。

「言葉にできない何か」を説明する言葉のかわりに、全体としての「文脈」で伝えているのです。

それを言葉にすれば「テーマ」だとか「主題」だとか言いますが、それが何かを伝えるのに、それだけの言葉が必要だということです。

しかも多くの文学的な価値を持つ物語は、最後まで読んでも何が言いたかったのかはっきりとしないことが多く、霧がかかったような残像として残ります。

解釈の仕方は読む人の自由だし、読む人の数だけそれについての解釈の仕方がある。

だから文学は面白いし、芸術的な価値がある。

ただ、今の世の中にそうしたやり方は向いていません。

今の世の中はわりとハッキリとしたものを好むからです。

今の世の中は、なんでも手軽にわかったような気にさせるし、それを世の中はよしとしている風潮があるからです。

みな一様に物事には画一的でいて唯一の答えがあると信じている。

そして、本当は答えなんてなく解釈の仕方も自由なのにそれをわかりやすく簡潔な言葉でまとめることをよしとする。

それもできるだけ時間をかけずに・・・。

言葉では説明できないところに物事の本質があるのにもかかわらず、言葉にたより、言葉で全て説明できると信じ込み、言葉でその意味を解釈し、言葉で説明できないことは理解できていないという。

これは本当におかしなことだと思います。

そしてどれだけ言葉が万能だと考えているのか、と思います。

本当は言葉にできない部分に面白さがあり含みがあるのだから、簡単に言葉になどできるものではないのです。

謎に包まれたものを喜ぶ人が少なくなってきてる

今の世の中は、謎を謎のままでいることをよしとせず、みんながわかるようなハッキリとした画一的な答えを求めます。

このことについて「さようなら全てのエヴァンゲリオン」で映画監督の庵野秀明さんは下記のように語っています。

謎に包まれたままだとおいていかれちゃう。

面白いですよっていうのをある程度出さないと
うまくいかないんだろうなっていう時代かなって。

謎に包まれたものを喜ぶ人が少なくなってきてる。

庵野秀明 「さようならすべてのエヴァンゲリオン」より

わからないことをわからないで、あれこれと想像を巡らすことに価値をもたない時代。

わからないことを、わからないから想像をめぐらし、それぞれの解釈に任せるということをよしとせず、ハッキリとこうだと言ってあげなければならない、想像力が欠如した時代だということもできると思います。

そしてこのことに問題の発端がある。

言葉は決して万能ではないし、時に無力でもあります。

本来であるなら、それを知った上で、それを前提として言葉を紡いでいかなくてはならない。

わからないこと、説明できないことを無理やり言葉にしてわかったような気になるから、道をあやまるし、余計わからなくなったり、誤解して伝わっていく。

それは雰囲気として感じるものだと思うし、雰囲気として感じることができない、もしくは雰囲気として感じることが許されない。それが今の世の中だと思います。

わからないことはわからないでいい。わからないなりに道を進んでいくしかない。

言葉では全てを語ることはできず、その場の雰囲気で臨機応変に対応していくしかない。

言葉に頼り過ぎてはいけない。

私はそう思います。

・・・・

現代は、グローバリズムにより西洋的な画一的な考え方や捉え方が蔓延し、東洋的な多面的な考え方や捉え方が蔑ろにされる時代です。

残念ながら、それを理解した上で、時に抗いながら今の時代を生き抜いていくしかありません。

それが時代の流れですから。

ただ、NOというべきもにはしっかりとNOを突きつけていかないと、時代がどんどん変な方向に流されていってしまうような気がします。

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