私は、同業者とお会いする時にその方の言うことに「共感」できるかどうかを一つの物差しにしています。
「共通体験」として、深く共感できることが多ければ多いほど、その方を信用しますし、逆に共感できない部分ばかりだったり、共感できる部分が浅ければ、その人の言うことを信用することはありません。
それはビジネスに限ってのこともありますし、それ以外のこともあり、残念ながら一度きりしかお会いすることがない人もいます。
「共感」できることがないと言うことは、仕事を通して「共通の体験」をしていないと言うことであり、その人の発する言葉に何かしら「嘘」が含まれている可能性があるからです。
真摯にその仕事に向き合っていれば、それぞれの経験は違えど必ず同じような体験をするものですし、そこにはある種の「共感」が生まれます。
仕事をする上での楽しさや苦労、また喜びや哀しみ、一人ひとりの体験は違えど、嘘のない方には感情的な面でそれらが現象として「共通のゆらぎ」として確かにそこに感じられるのです。
それは不思議と言葉を超えたところで発生するもので、本物にお会いしたときは、一言、二言、会話を発するだけで分かりえるような気持ちになり、嬉しくなることがあります。
そして自然と笑みがこぼれます。
その時に発する言葉は、具体的な会話の内容云々ではありません。
ほとんどの場合、会話の内容は関係ありません。
言葉の節々から「なんとなくそう感じられる」程度のものです。
そしてそういう方にお会いすると、戦友にあったような気がして私はすごく嬉しくなります。
「あ〜この仕事をやっていてよかったな」
「あ〜なんだか仕事に救われたな」
大袈裟でもなく、冗談でもなく本当にそう感じるのです。
その時、心からこの仕事をしていてよかったと思えます。
どんな些細なことでも、簡単に成し遂げられる仕事はありません。
どんな些細な仕事でも、それに本気で向き合い、没頭し、熱意を持って取り組んだものにしか見えない世界があります。
現代の風潮としてより手早く、簡単にできる方法こそが正義とされ、簡単な方法に人々の関心が向き、手軽なものほど受けが良いという実態がありますが、本来何事も修行の期間が必要なものであり、何度も繰り返し繰り返しそれ相応の時間をかけて鍛錬を重ね、研鑽を積み上げてこそ物事の「本質」や「コツ」をつかむことができるものだと思います。
本物の方とお会いすると、そうした背景が言葉ではなく「同じもの」として感じることができる。
一言、二言で何がわかるんだと自分でも不思議に思うことがあるのですが、言葉の節々に現れる「トーン」の違い「重さ」の違いというか、言葉で表現すると安っぽくなってしまいますが「雰囲気」のようなものが感じられるのです。
それはその仕事に対して、真摯に向き合っているものだけがわかる「何か」であって、言葉では説明できないものだと思っています。
[…] >>>仕事人としての「共感」と「苦悩」について […]
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