誰かと比べているうちは一流ではない

「誰かと比べているうちは一流ではない」と言われたことがあります。

その言葉の裏には、誰かと比べるということは、まだその人自身の人生を生きていないということであり、本質的に人生を楽しんでいないという思いが潜んでいるのかも知れません。

確かに、本質的に人生を楽しんでいる人を見ると、誰かと比較しているようには感じられず、できるだけ「俗」から離れ、基本や礼節を重んじながらもその人の経験から学んだ尺度で生きているように思います。

「俗」には、人間の様々な思惑が働いており、流行があったり、何者かの手によって支配され常に動かされている状態を指しますから、真に人生を楽しめているかというとそうではないという見方もできます。

もちろん人間ですから、完全に他人と比較せずに生きていくのは難しいでしょうし、今の時代、一人だけ「俗」から離れ仙人のように暮らすのは難しい。

よっぽどの経験値を積まない限り完全に「俗」から離れることは到底無理な話だと思いますが、ある種自分の人生を生きている人は、できるだけ「俗」と距離をとった生き方をしているように思います。

だからそういう考え方も一理あるなと思うのです。

私はまだ、誰かと比較したり、誰かのことを羨ましがったりする気持ちがありますから、そういう意味ではまだ本質的な人生を楽しんでいないのでしょう。

あらゆるものは一定の距離を置いてみた方が美しい

あらゆるものは外から見る方が美しい・・・そう思う時があります。

街を彩る華やかなイルミネーションも、その渦中にいる時よりも少し距離を置いて離れた場所から見た方が一段と輝きが増しているように見えますし、街を彩るネオンも同じように外から見た方が綺麗に見えます。

人は明るいところを求めて歩みを進めていきますが、実は少し距離を置いた方が美しく見える・・・そう思うのです。

パーティーもそうです。はたから見れば、渦中にいる人は男性はタキシードを纏い女性はドレスに身をつつみ社交的なパーティーを楽しんでいるようにみえ、外の人からすると華やかにうつりますが、その中には人間の様々な思惑や欲望が渦巻いており、一般的に思われているほど華やかなものではありません。

むしろドロドロです(笑)。

また、昔はサロンと呼ばれる場で情報交換をしていたと聞きますが、実際そうした現場に自分が居合わせるとタイタニックの映画でも描かれているように、やはり人々の噂話などドロドロとした情報が飛び交っています。

やはりこれも現場にいるよりも外からちょっと距離を置いてみた方が美しく見えます。

おかしなことに人々は一見すると華やかなものに向かって歩みを進めていくものの、実際に自分がその場に居合わせると、外から思っていたほど華やかなものではないことに気がつき、ハッとすることがあるのです。

情報に踊らされているうちは本質的な人生を楽しんでいない

巷にあふれているメディアの情報に触れると、たまに嫌気が差してくることがあります。

私自身、インターネット業界、それも広告業界に身を置いている身でありながら嫌気がさしてくるのです。

私は今30代の後半ですが、私くらいの年齢になるとある程度成熟し(まだまだ幼いと思いますが)、だんだん世の中がわかってくるようになってきたこともそう感じる背景にはあるのかも知れません。

大抵のメディアは新しい「何か」を作ろうと躍起になっていますから、そうした情報に踊らされている限り、自分のスタイルを確立しているとは言えませんし、本質的に自分の人生を生きている、楽しんでいるとは言えない・・・もしかしたら、そう感じる時間が増えてきたことも関係しているのかも知れません。

きらびやかに繕われた部分にはほとんどのケースでお金が動いています。

そして、そこにはあらゆる部分でお金を使わせる仕掛けが用意されているし、そうした情報に踊らされているうちは、自分のスタイルを確立できていない・・・ある程度ものごとを経験し、裏側から見てそう感じられる機会が増えてきたせいもあるのかも知れません。

大抵の場合、あらゆるものは、外から見ていた方が美しい。

そう思うのです。

人も国も同じで尺度がないと流され消費される

あらゆることを経験し自分の尺度をしっかり確立しないと、流されるだけ流されて人生もお金も消費してしまいます。

これは人も国も同じなのでしょう。

経済に支配されてしまい、お金儲けだけが優先され伝統や文化が軽んじられている傾向にある今の日本。歴史を学ぶと、戦後日本の大義は破壊され、失われてしまったように思います。

仕事をする上での流儀、型を持つ意味

ただ私にも仕事をする上での判断の尺度やスタイル、流儀のようなものはあります。

本質的な人生を楽しむための流儀は確立できてはいませんが、私自身が日々勤しんでいる仕事には流儀のようなものがある程度あります。

例えば、経験上、突然出てきた派手なものはほとんどの場合「嘘」が含まれるので信用しないということもそれにあたります。

>>>派手なものの中には「嘘」が含まれる

もちろん例外もありますが、派手なものや派手な人、派手に見せている人には「嘘」が含まれているケースが非常に多いのです(もしくは本質から遠ざかったハリボテのケースもあります)。

またそれ以外でも私は物事を学ぶときに「筋」を大切にしていることもある種の流儀であると言えます。

>>>プロの仕事について思うこと【プロの仕事に共通してみられる哲学について】

さらに「アントニオ・ガウディ曰く「独創性とは起源に戻ること」」であったり、「ジョン・ガリアーノ曰く「黒はカラフルなパーソナリティがないと着こなせない」」でも、私なりの「筋」や「考え方」についておりいって触れています。

流れとは逆方向に向かうことは難しい

「俗」につかりすぎているとどうしても世の中の大きな流れに飲み込まれ、ふとするとそのまま流されてしまいます。

たくさんの人が「右」へ向かっている最中に、それにあらがい一人だけ「左」へ行くのは非常に難しい・・・このことはある程度の経験を積めば誰でも感じられることだと思います。

押し分けて、押し分けて、押し分けて進んでも、なかなか前へ進めないですし、抗うことのできない「何か」が確実に存在し異質なものとしてはじき出されてしまうのです。

日本という国においては、その傾向はいっそう色こく顕著に現れているように思いますし、同調圧力のようなものを確かなものとして感じることがあります。

「俗」から少し離れてみると、この辺りが少しだけわかります。

自分なりのスタイルを確立するためには俗につかる期間も必要

ただ「尺度」を見つけ「自分なりのスタイル」を確立するためには、ある時期までは「俗」にどっぷりと浸かる必要があるのではないかと今の私は考えています。

酸いも甘いも噛み分けて、様々な経験を積まないと私という人間の人としての「色気」が生まれないでしょうし、深みが生まれません。

経験値が少ないと、俗から抜け出すことができず、自分のものとしてスタイルを確立することもできません。

人生も、一見遠回りに見えるような無駄なことも、様々と経験した中で初めて得られるものも感じられるものもあるのではないかと思うのです。

前回書いたようにイチローさんも「無駄なことはできるだけやった方がいい」と言っていますしね。

ふと、こんなことを華やいだ街中のイルミネーションを見て考えました。

ただそれだけの話です。

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