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仕事には「遊び」がないと本質的に「新しいもの」は生まれない

世の中はどこもかしこも効率化に向かって進んでいます。

大きな時代のうねりのようなものですから、この流れは結局行き着くところまで向かうのでしょう。

効率化ときいて抱くイメージは人それぞれだと思いますが、私の個人的見解としては効率化もいいけれども、今の時代の雰囲気の効率化は効率化と同時に何か人間的でいて大事なモノを失っている気がしてなりません。

私の語彙力では表現するのが難しいですが今の効率化は「暖かい」効率化ではなく、「冷たい」効率化の色を帯びているような気がするのです。

そしてその「冷たい」色を帯びた効率化は人間的でいて大事なモノの隙間にそっと忍び込み、気がつかないうちに私たちの生活を静かに蝕んでいるような気がしてならないのです。

私はその何か人間的でいて大事なモノを「遊び」や「余白」とよんでいますが、仕事においてもプライベートにおいても本質的に新しいものは「遊び」がないと生まれないモノだと考えているため、今の状況をとても深刻な事態であると捉えています。

効率化することがかえって非効率化につながる

徹底的に無駄なモノを排除しても結局、「余白」となった部分には新しい「何か」が入り込みます。

要するに物事を楽にするために、どんなに物事を効率化しようと、本質的に仕事そのものが楽になるわけではなく、実はどんどん忙しくなってしまっており、(今の時代の背景にある効率化は特に)逆に私たちの生活を苦しめている場面が多いように感じるのです。

仕事を効率化し、隙間時間とも言える「余白」や「遊び」を作ろうとしたのにもかかわらず、なぜだろう、さらに忙しくなる。

特に大きな企業に勤める会社員の方はこの点において十分ご理解いただけるのではないかと思います。

仕事をやってもやっても、終わらせても終わらせても、不思議なことにどんどん新しい仕事がやってくるあの感覚。

仕事ができる人ほど、どんどん忙しくなり、なんとなくやったらやっただけ損した気持ちになる。

そして精神的にも肉体的にも疲弊していく・・・。

今の時代の雰囲気で効率化した仕事の果てに待っているのは、さらに馬車馬のように働かされる日々なのではないでしょうか。

私も以前は大企業に勤めていたこともあるので、その感覚が痛いほどわかります。

グループウェアなんかのスケジュールを管理し共有できるソフトウェアも一見便利そうに見えますが、時間が空いていればどんどん勝手に予定を組み込まれるし、なんというか本来であれば無駄でいて大切な部分である「余白」や「遊び」をつくることを許さない社会になってきたように思います。

効率的でいて便利なものに仕事を置き換えられたはずなのに、プライベートを充実させたり家族や友人たちと楽しむ時間が素知らぬ顔で吸い取られていく。

現在の効率化は、効率化とはいうけれど、結局は名前だけ。作業スピードを早めたり会社側の都合の管理能力を高めただけで、本質的な意味での仕事の効率化につながっていない気がするのです。

効率化に向かうほど奪われる「遊び」や「余白」

例えばクラウド。

クラウドはものすごく便利です。

やりかけの仕事をクラウドにアップロードしておくだけで、いつでもどこでもそのファイルをいじれるようになり、つまりは世界中どこにいても、オフィスと同じような感覚で仕事ができるようになるからです。

インターネットに繋がる環境がある限り、地球上どこでもオフィスになりえると表現してもいいと思います。

特に海外に目を向ければど主要都市であれば一歩お店に入れば無料のWi-Fiが飛んでいるところも多いですからインターネットにつながりやすく、比較的作業をこなしやすくなっているように思います(今はコロナ禍だからいろいろ問題はあるけれども)。

だから、このサービスのおかげで昨今流行りのテレワークなんかも簡単に現場に持ち込めるようになったように思います。

実際、私もクラウドを利用して仕事をしていますし、いつでもどこでも、Mac、iPad、iPhoneを行ったり来たりしながらその場の雰囲気に合わせて端末を選んで仕事をしています。

そしてクラウドを利用した結果として、昔と比べると本当に考えられないくらい快適に作業ができており時間の短縮にもつながっていることを実感しています。

ただ、同時に「余白」や「遊び」の時間が「仕事」に奪われているなと感じることも多くあります。

どこでも「仕事」につながれるということは、いついかなる時でも仕事ができることにつながり(ベッドに横になり眠りに落ちる前に仕事をすることもできますし、実際する時もあります)、仕事を進めるのに便利な反面、ボーッとする「余白」や「遊び」の時間が奪われてしまい、確かに便利だけれども常にそこにあるいたたまれない不便さを感じてしまうのです。

そしてまたそれと同時に「空白」の時間という「無駄」がないぶん、逆に今までだったら考えられないような「無駄」を抱えることが増えてきてしまったような気がするのです。

もしかしたら、私のような人間は仕事ができる環境にある限り、仕事をしてしまうため、常に仕事から離れることができず、便利な反面、とても不便になったと感じてしまうのも、理由の一つなのかもしれません(これは、どうしようもないことなのだけれども)。ただ、最近では仕事から距離を置くということが少しずつできるようになっているので(学習しました(笑))、この辺りは改善されつつありますが、いつも頭の中に仕事のことがあるのは依然現実として存在しますし、気がつけばいつの間にか仕事をしている感覚はまだ根強くあります。

効率化によって今までは考えられなかった無駄が現場に持ち込まれる

オンライン会議やオンラインでの打ち合わせでも無駄がない分、新しい「無駄」が現場に持ち込まれるようになったように思います。

オンライン会議は端末さえあればどこにいても会議ができるため、物事の良い側面だけを見れば非常に便利ですし画期的でいて革新的です。

ただ一方でズームなどを利用したオンライン会議や打ち合わせなどは無駄な部分が徹底的に排除されて、用件だけ伝えて終わってしまったり、必要なことを会議しおえたら解散というような異質な終わり方をするので、人間関係が非常にドライになった気がします。

会議後や打ち合わせ後に静寂に包まれると、なんだか一人その場に取り残されたような虚しい気分になるのは、たぶん私だけではないでしょう。

本当は会議前や会議後の無駄な時間(または無駄な部分)にこそ旨味があるのに、無駄が徹底的に排除され、効率的な何かに置き換えられ、必要な要件だけをささっと済ませてしまう。

要件や議題は会議でこなすことができても、人間関係が希薄になり、機械的でいて単純なものだけが支配する。

ここでもやはり同じ場所に集まるという無駄がなくなった分、効率化により暖かい無駄が排除され冷たい無駄が生まれてしまったように思います。

(オンライン飲み会なんて際たるもので、なんというか、とてもじゃないですが「温度」が感じられません。飲み会はオンラインでやるものではないなとつくづく感じていました)

効率化や便利なツールの誕生によって無駄を楽しむ余裕がなくなってしまった世の中

今思えば、スマートフォンではなくて、ガラケーを使っているときは、比較的「遊び」や「余白」が生まれやすかったような気がします。

私はパケ放題のような定額制のサービスではなく、データ通信量に従って料金が加算される不便なサービスを利用していましたから、移動中などの余白の時間に頭に浮かんだ何かは、とりあえずメモしておき「その件については帰ってから調べよう」で済ませていました。

そしてそれについてあれこれと想像し、それまでの時間に仮説を立てたり、こねくり回したりして、あーでもない、こーでもないと、うんうんと頭の中で考えていたような気がします。

しかし、今は、便利です。

疑問に思った「何か」は、ちょっとしたことであればすぐにその場で検索して解決することができますし、周りの雰囲気も「そんなのさっさと検索すればいいじゃん」という雰囲気になっています(疑問に思ったら人に訊かず、まずはグーグル先生にきけというドライな空気感があります)。

そこには「考える時間」や「想像する楽しみ」、「わからないことをわからないままにしておく」という「遊び」や「余白」がありませんし、何よりも想像して楽しむ時間を確保することが難しくなっています。

それはつまり、その過程で生まれる一見すると「無駄」に見える「思考回路」や生まれてくる「無駄なモノ」を一切排除しているということを意味し、本質的な豊かさではないのではないかと思うのです。

わからないから、わからないなりに、わからないことを想像するという「遊び」が失われてしまったように思うのです。

昔はヒトと話していても「それってこういうことだよ!」「いや違うよ!こういうことだよ!」「まさか!こういうことだよ!」と想像を巡らせる会話をする楽しみがありましたが、今は一瞬です。

「検索してみよう・・・その件については、こう書いてあるよ」で終わります。

本当、非常に効率的で無駄な部分がなく、時間も短縮できます※。

けれども、その会話の中で生まれる楽しみや、その人独自の思考回路、無駄な「会話を楽しむ」という楽しみが失われてしまったように思うのです。

以前は、そのようなコミュニケーションを通して人を知り、笑って「馬鹿だなぁ」と思ったり、ヒトと仲良くなっていたような気がします。

つまり、効率化と同時に、人々から想像して楽しむ創造性が失われてしまったように思うのです。

※(検索した結果、出てきた情報が正しいかどうかは別として)

効率化によって旅をする本質的な楽しみが失われている

効率化を推し進めると、結局は巡り巡って何か圧力的なモノが高まり、挙げ句の果てに単純でいて機械的なものへと移り変わっていくのかもしれません。

そしてそれは一つの答えとなってしまいますし、一つの答えに依存する形になり、思考の末に生まれた多様的でいて色彩を帯びた暖かみのある解釈をなくしてしまう。

人々は1つの問題に対峙したとき「1+1=2」のように数学的な答えを求めるし、確かに、それを求めたがる気持ちもわかります。

しかし現実の世界では「1+1=3」になることは往々にしてあります。

物事が効率化した今はなぜ「1+1」は「3」になるんだという楽しみや、それを想像する楽しみを私たちから素知らぬ顔で奪って行っているような気がするのです。

プロセスを省いて、答えだけにショートカットしてたどり着く。物事の良い面を見ればそういうことなのでしょうが、その途中の過程である一見すると「無駄」だけれども「有益」な部分がどんどん削ぎ落とされて行ってしまっているような・・・そんな気がしてなりません。

それは、どこか旅をする際に一気に目的地についてしまうかのような、本来であればそこにたどり着くまでの過程を含めて旅をする楽しみであるのにもかかわらず、そこに行き着くまでの「風景」や「出会い」をショートカットし、ただ、旅の目的だけを達成しているかのように思える時があります※。

旅はそこに至るまでの道中に奇想天外のとんでもないストーリーがあるものですし、そのストーリーこそが旅の醍醐味であり、旅の魅力であり、そうした無駄な部分を含めて「旅」と呼ぶのだと思うのですが、今の効率化はその旅の旨味の部分を根こそぎ奪い取って、そこにあるものにしか目を向けていないような気がするのです。

※まるでドラえもんの道具である「どこでもドア」のように。

「遊び」や「余白」は人生を彩り豊かにする

ともかく。「遊び」や「余白」がないと、人生に潤いが生まれません。

「遊び」や「余白」は人が生きる上でとても大切なモノです。

新しいアイデアや、思いつき、新しい仕事は「遊び」や「余白」から生まれることが多いですし、冗談を言い合ったり、それについて無駄なことを話したり考えたりしているときに、突然、一つのアイデアとして色彩を帯びてくるものです。

だから一見すると無駄に思えていた部分が、振り返ると無駄ではなかったということが往々にしてあるものなのです。

効率化のはてに夢見た未来が、人々から人間的でいて大事なモノである暖かみのある「余白」を奪い「遊び」を奪い創造性を奪うモノだったとしたら、なんと皮肉なことなのかと最近はつくづく思います。

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