私は、ウェブ上にコンテンツを作成する時に、たいていの場合かなりの時間をかけて1つのコンテンツを作ります。
さらっと書いたように見える些細なコンテンツでも、何度も何度も繰り返し読み直したり、あえて時間を置いたり、今作成しているコンテンツと距離をおいたり、近づいたりしながら、執筆を進めていきます。
話の流れはおかしくないか、テンポは、リズムはどうか、何より相手にわかるようなものになっているかどうか。
いろんな角度、方向性からコンテンツをチェックしていきます。
時間をかけるには、時間をかけるなりの意味があるからです。
それは一通のメールを送る際もそうです。
何度も読み返し、相手にきちんと伝わるだろうか、話の意図が理解できるだろうかというようなことをできるだけ俯瞰して読み返し、読み返し、練り上げていきます。
それは、その日の気分や気持ちの変化によって手直しの箇所などが変わり、少しずつ細かい部分が変化していきますが(多分コンテンツを作成している本人にしかわからない領域で)、私の感覚としては時間をかけるといいものになるケースが非常に多い気がします。
たぶん、伝えたいことを言語化してきちんと伝えるためにはそれ相応の時間が必要なのかも知れません。
深い霧が立ち込めている奥深い森を、手探りで歩き、行き止まったり、道を迂回したり、新しい発見をしたりしながら時間をかけて考えをまとめ、ゆっくりと言葉にして落としていきます。
これは非常に疲れる仕事で、大袈裟でもなんでもなく脳味噌の深淵を覗くような作業という言葉に置き換えることもできると思います。
(私の立場で軽々しく「共感」という言葉を使うには非常におこがましい立場であることはわかっていますが、アニメーション映画監督の宮崎駿さんは「ポニョはこうして生まれた〜宮崎駿の思考過程〜」のなかで映画を作ることは「脳味噌に釣り糸を垂らす作業」といっています。感覚としては、それに近いものを感じます)
ただ、必ずしも時間をかければいいコンテンツができるわけではありません。
逆に時間をかけない方がいいコンテンツになりやすいこともあります。
この辺りの差異を言語化をするのは非常に難しいですが、あくまで私のケースで言えば、時間をかけずに作ったコンテンツは素直なコンテンツになりやすく、時間をかけて作ったコンテンツは複雑で深みのあるコンテンツになるような気がします。
スッと体に染み込みやすいコンテンツとするか、複雑で余韻が残るコンテンツにしたいのかその違いなのかも知れません。
だから、もちろん全てのコンテンツにおいて必要以上に時間をかけることはしませんし、時間をかければ必ずいいコンテンツが作れるかといえばそれは嘘になります。
なかには時間をかけすぎてしまい、ある一線を超えてしまいコンテンツが意図することや伝えたいことが素直に伝わらなくなってしまった経験が過去何度もあるからです。
テーマが複雑になりすぎてしまい、広がりすぎて収集が付かなくなってしまうのです。
だからどこかではっきりとした線引きをすることは必要になります。
ある種の何かを誰かに伝える時、コンテンツには時間をかける意味と、時間をかけない意味があります。
その2つは、相反するものですが、均衡という意味では非常に近しい存在となり得ます。
時間をかけてたくさんの素材をぐつぐつ煮込んだコンテンツだけでは胃もたれしてしまいますから、緩急をつけるという意味でも、さらっと手早く味の薄いコンテンツを作成することも必要になります。
ただし、何かを本気で伝えようとした場合は、時間をかけて、ゆっくりと自分と向き合い、コンテンツを通して全力で相手に伝えるようにしています。
それは言葉で人に伝えることの責任だと思っていますし、なんでも簡単に、かけるべき時間をかけずに簡素化していく傾向にある今の世の中への私なりのアンチテーゼでもあるのかも知れません。
今は感性の時代です。
人は「論理的」に考え「感情」で購買を決定しますが、まわりを見渡せば「論理的」に説明されるよりも、なんとなく「好き」やなんとなく「嫌い」と言った「感覚」が重視される時代です(基本的な購買意思決定に際してのメカニズムは変わらないと思っています)。
コンテンツに対しても、より女性的なものが求められる時代(の流れ)なので、じっくりと時間をかけて噛み砕くコクと深みのあるコンテンツよりも表面をなめたような軽い口当たりでスッキリとした味わいの浅入りのコンテンツの方がウケがいいことは知っています。
それを知っておきながら、あえて男性的なコンテンツを作成し続けることは、時に苦しいこともありますが、もしかしたら時代の風潮に逆らうことでバランスを取ろうとしているのかも知れません。
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