昨日なんとなしにTBS系列のニュース番組「News23」を観ていたのですがイチローさんが出演されていました。
私はイチローさんの考え方が好きで、目についたインタビュー記事などは読み漁っているのですが(偶然見つけた記事ばかりで追い求めたりはしていません)、イチローさんの野球に対する考え方は思慮にとみ、野球はもちろんビジネスの現場でも流用できますし、ひとつひとつの発言に言葉には言い尽くせないほどの価値があると個人的に思っています。
多分、ご自身で考えて発言されているからなのでしょう。
私は取り立てて野球が好きというわけではありませんが、イチローさんは何か他の野球選手とはカラーが違うように思えますし、また、真面目なお人柄が現れていて1つの質問に対してものすごく真剣に受け答えをされている印象を受けます。
それこそ1つ1つまず質問の内容を噛み砕いて、一度飲み込んでから、自分の経験と照らし合わせて発言をされている印象を受けるのです(私もつくづくそうでありたいなと思います)。
もちろんプロですから(現役は引退されているので「プロでした」というのが適切かと思いますが、失礼に当たると思いますので「プロですから」と言っています)パフォーマンスの意味合いを含む発言をされている印象を受けることがありますが、けれどもそのほとんどは、イチローさんにしか答えられないし、語弊を恐れずに言えばイチローさんの頭にしかない考え方であり、だからこそ深みのある発言ばかりである印象を受けます。
なぜそう思うのかと言えば、常にインタビューでお答えになる内容、そして発言が一貫しており、言葉の節々を繋いでいくと一つのイチロー流という考え方が表面に浮かび上がってくるからです。
無駄なことはできるだけやった方がいい
昨日放映されたNews23に出演されていたイチローさんのインタビューで気になったのが、「無駄なことはできるだけやった方がいい」という発言です。
これは国学院久我山の練習風景をみたイチローさんが発言した言葉です。
イチローさんは続けて「無駄なことから学ぶことがやっぱ多い」と言い切っています。
そして「無駄なことは必要?」と問われて、
「無駄なことはできるだけやった方がいいですよ。じゃないと合理的になれないでしょ。頭で理解しているだけのケースって、今、多いと思うんですけど、それは危険だと思いますね。本来は」
と言い切っています。
つまり無駄なこと、一見すると、無駄に思えるようなことでも、進化に必要な一つの「道」であり無駄なことをやっているようで実はそれは無駄ではない。
合理化の波にのまれ、現在一般的に無駄だと思われことは本来必要な「道」であり、それなしでは上達の「道」に通じるものがないことを暗に示しているのだと思います。
これを聞いて、やっぱりすごい人だなと思うのです(しかもさらっと言っていた)。
イチローさんのインタビュー
Q.インタビュアー:(国学院久我山の練習風景を見た後で)国学院久我山の選手に少し心配な点がありました?
イチローさん
「まあ、とにかく考えてますよね。練習ひとつ、どうやったら効果が生まれるのか。“無駄”なことができない危険があるんですよ。もう合理的に練習も進めていく。しょうがないですよね、時間がないから。当然なんですけど、でも“無駄”なことできない。“無駄”なことから学ぶことがやっぱ多いので、それができないのはかわいそうでもあるけれども、でもそれはしょうがないんだ。Q.インタビュアー:無駄なことは必要?
“無駄”なことはできるだけやったほうが良いですよ、じゃないと合理的になれないでしょ。頭で理解しているだけのケースって今、多いと思うんですけど、それは危険だと思いますね、本来は」
2022年1月10日 News23のインタビューより引用
無駄を知らないと人は合理的になれない
本来は無駄(だと思われるもの)を潰していった結果、合理的な考え方ややり方が生まれてきます。
無駄の積み重ねで、自分にとって本当の技術が磨かれるし、本質的には無駄の積み重ねでしか自分の技術は磨かれないと言ってもいいと思います。
私自身もたくさんの無駄を経験してきましたし、無駄があって、遠回りをして、やっとここまできたという確かな感触を感じることができます。
もちろん無駄をしている最中は、それを無駄だとは思ってやっていませんし、きちんと自分の頭で考えて動いています。
それが無駄だと思わずやっているのだけれども結果としてそれは無駄で終わることが多い。
つまり無駄なことをしようとして無駄をしているわけではなく、そこにむかうべき道の途中に自然と無駄が存在するようなイメージです(本筋と離れて全然違うことをする無駄ではありません。考えた末に捻り出したある程度アタリをつけた無駄です)。
だから百発百中なんてありえないし、自分の頭で考えて、仮説をたて、試してみて、ちょっと変えてみて、それでもやっぱりダメで、それを何度も何度も繰り返し、スレスレのところで突き抜ける。
経験上、そんなことが多いのです。
その過程で結果として合理化しているだけで、その最中は合理的なんて呼べはしないし合理的になんてできるはずがありません(非常に泥臭く、地味で緻密な練習の積み重ねです)。
合理的になるにはやはりそれなりの経験や失敗の数が必要だし、いずれにせよイチローさんがいうように無駄なことを経験しないと人は本来、合理的になれないと思うのです。
もしそれで合理的になれたとしても、合理的に見えている「何か」を掴んだだけに過ぎず「筋違い」であり、本質的な意味での合理化ではないと思うのです。
合理的な考え方はたくさんの無駄が生み出した副産物に過ぎない
合理的になるのにはその過程にある「余裕」や「余白」または「遊び」が必要です。
いきなり合理的になれと言われてもそれは無理な話で(余程の才がないとわかりません。天才は1を与えただけで10まで理解するから天才なのです)、そんなモノは機械(※)に任せておけばいい話です(今はなんでも合理化するきらいがあります)。
我々は人間なのですから、遠回りをしようが自分の頭で考えて、そこから自分なりの答えを見つけ出す。
それでいいと思うのです。
今、大企業のトップにいる人や、日本の中枢で働いている偉い方々はそういう無駄なことをたくさん経験してきて「今」があるのにもかかわらず若手に対しては、合理的であることを求めるし、常に合理的でならなければならないと考え方を押し付けてきます。
確かにそれは正しいことも多いですし、いずれにせよ結果として合理的な考え方に向かうことを否定することはできません。
けれども本来であれば無駄なことを経験しないで上から叩きつけられるように一方的に合理的であれと言われてもそんなことできるはずはありません。
なぜなら分からないからです。
「筋」を知らなければ「本質」にたどり着けない
「筋」がわからないと言ってもいいと思います。そして「筋」がわからないと迷うのです。「筋」がないと大海原にほうっぽり出されるようなもので、そこに至るまでの経験がないもしくは浅いため、本来であれば「筋」を通して「道」を想像できることでも、合理的な答えだけを教わりそれに頼っていると、目的地にたどり着きたくても、自分の頭で考えてたどり着くことができなくなってしまうのです。
だから、若手にも自分たちと同じように無駄を経験させてあげないと、長い目で見た場合、考える力を失うし、人材が育っていかないと思うのです。
今、日本の企業には時間的資本的余裕がないのも理由の一つかも知れませんが、この部分においてはあえて遠回りをしないと人が育つことはないと思います。
今は厳しいかも知れないがあえて遠回りをする社会的な受け皿が必要だと思うのです。
合理的な「答え」ではなく物事の「筋」を知れば自然と伸びる
今は何でもかんでも合理的に物事を考えようとしますから、答えだけを与えてしまいますし、与えられる方も「筋」よりも答えだけを求めてしまいます。
本来は答えなんて必要ありません。そこに至るまでのヒントがあればよく、つまりは「筋」を教えればいいのです。すべてにおいて明確な答えがあると思っているとそれに固執してしまい新しい発想は生まれませんし、新しい「何か」を生み出すことはできません。
一方で「筋」を知っていれば、それは「道」となり、どんな時でも自分の頭で考え、悩みがならも目的地に向かって前進することができます。
実際、うまくいく人というのは「筋」を知り、自分の頭で考えられる人が多いような気がします。
かわいい子には旅をさせよという諺(ことわざ)がありますが、やはり旅をさせて無駄な部分を見せてあげないと本質的に合理的な部分が見えてこないと思うのです。
無駄なことをやってみて無駄を積み重ねたはてに一つの合理的な考えは生まれる
だから、無駄なことをやってみて、試してみて、はじめて物事の道理や本筋がみえ結果として合理的になるのだと思いますし、無駄なことを経験しないと本質的に合理的になれないと私は思うのです。
無駄な経験をしないで合理的な考え方にはなれませんし、合理化はできません。身につけられたとしても、それはまやかしの合理化であり、合理的な考え方の本質的な部分がズレて伝わってしまい合理化する意味も薄れてしまう。そう思うのです。
効率化を前提とするのは一向に構わないのですが、「道」までも合理化してしまい、無駄なことを削ぎ落としても結局新たな無駄を抱えるだけで、本質的な合理化にはつながらないとつくづく思うのです。
奇しくも、私も比較的最近の記事で効率化には「暖かい」効率化と「冷たい」効率化があり、今は「冷たい」効率化に進んでいると言及しました。
>>>仕事には「遊び」がないと本質的に「新しいもの」は生まれない
(※究極の合理化はAIだと思います。AIは常にたった一つの合理的な答えに向かって計算していきますから、そこに深みはなく、生まれようがありません)
無駄なことはなく、無駄だと思えることも結局無駄にはならない
実は、イチローさんのことについては過去の記事内でもお話ししています。
>>>SEOはGoogleとユーザーを繋ぐ翻訳作業
(「本質的な意味において遠回りは存在しない」という項目を参照してください)
「SEOはGoogleとユーザーを繋ぐ翻訳作業」で触れているのは、イチローさんが現役時代42歳の時に受けたインタビューになりますが、やはり一貫して同じようなことをおっしゃっています。
例えば今の時代は様々なものが発達しており情報がたくさんあるので、下手したら「最速、最短で行ける可能性もあると思いませんか?(技術的な部分で上達するスピードが速くなり、より技術の向上につながる)」という質問を受けて「無理だと思います」と即答しています。
「失敗をしないでたどり着いたところと、全くミスなしで、間違いなしでたどり着いたとしてもそこに深みは生まれない」と言い切っており、「遠回りすることってすごく大事ですよ」「遠回りすることが一番の近道だと思う」と語っています。
遠回りと言ってももちろん「筋」に沿った遠回りでなくてはならないけれども、それが「筋」に沿った遠回りであれば、合理的な考え方をやめて遠回りすることはやはり大事だと思うのです。
私はウェブの人ですから言ってしまえば、何も考えずに放っておけば合理的な考え方に傾いてしまいがちな業界に根を下ろしています。
周りを見れば、右も左も、上も下も(笑)どこも合理化に向けて邁進するばかりです(本当に冷たい(笑))。
けれどもやはり、そうした合理化の裏では何か息苦しさというか居心地の悪さを感じることがあり、そこに強い違和感を覚えることがあります。
SEOなんてウェブの世界で言えば究極的な合理化にあるでしょうし、合理的な考え方に基づいて仕事をしなければならない。特に最近の傾向はGoogleのアルゴリズム(検索エンジンの計算式)の発達で合理的な考え方を強いられているし、合理的な考え方をしないと生き残ることが難しくなってきています。
この流れは、大きなうねりとなってきており、最近のアルゴリズムには特に言えることですが、無駄がなく、人間が抱える感情的なものや「遊び」や「余白」が排除され、無機質なものに傾いていっている傾向にあります。
本当に機械的に当たり障りのない答え(と思われるもの)を返すだけで、面白みのかけらがなく、検索結果として表示されるコンテンツとしての深みがなくなってきています。
無駄がないということはいい意味合いで捉えられることが多いですが、言葉を言い換えれば遊びがなく、今後の発展性がない、新しいものが生まれにくいということもできます。
Googleの検索エンジンは単なる答え探しツールになってきている
最近のGoogleは本当に答えだけを探し求める検索ツールになってきてしまっています(だから、どれも同じコンテンツになってきている。人々が確実生を求めた結果なのか、Googleがその影響力から当たり障りのないコンテンツを表示するように働きかけているのかはわかりません)。
逆説的ですが本来、本質的には合理的な考えは遊びから生まれるものだから、このままの状態が続くのであればGoogleの検索エンジンとしての役目も終わりに近づいているような気がします(完全には無くなりはしないと思いますが、別の便利な何かが生まれれば人々はたやすく移り変わることでしょう)。
今はインスタグラムやピンタレストなどの方がよっぽど面白い(最近はインスタグラムのコンテンツもビジネス的な匂いが強くなってきておりその動向が怪しくなってきておりますが・・・)。
※これらについては「仕事には「遊び」がないと本質的に「新しいもの」は生まれない」を参考にしてください。
もちろん、ウェブは合理化しないと全く結果がでないわけではないのですが、合理的でいないと結果が出づらいことがやはり大きな流れとしてどうしてもあり、その流れは無個性、無価値化を生み出していく傾向にあるのです(ウェブに限らず全世界的に合理化の波は押し寄せています)。
私はそんな流れが嫌で、実はこのブログでは途中からSEO的なことはほとんどしておらず、時代の流れに逆らい、無駄なことをして少しずつ積み上げていくようにしています。
この無駄は、多分、私の今までの経験から言えば、合理的だと考えられていたものよりも、理にかなっていてものすごく価値を生み出すコンテンツにつながっていくと思っています。
無駄なことをあえて、恐れずにしていく
例えば、この記事はイチローさんのインタビューに基づいて書いていますが検索順位の上位を狙っていくのであれば、イチローさんの発言にこれでもかというくらいに焦点を当て「無駄なことはできるだけやった方がいい」ということが伝わるように、イチローさんを主体に押し出してコンテンツを仕上げていけば検索上位なんて狙えると思います。
内容を合理的にして、余計なものを一切排除してシンプルでわかりやすく内容を簡潔にまとめていけば、上位なんて比較的簡単に狙えることでしょう。
そうすれば多くの人の目に止まるコンテンツになります。ゆえにアクセスも伸びます。
でもだからってなんだというのでしょうか。それがなんの価値を生むのでしょうか。どんな発展性があるというのでしょうか。同じような、似たようなコンテンツばかりが溢れ、どれをみても同じ、無機質なコンテンツばかりが広がるだけではないでしょうか。
そして結果としてどれも同じような含みを持つゴミのようなコンテンツが溢れるだけではないでしょうか?
だから、私はそれをしたくない。
また、これはイチローさんのブログではなく、私のブログであり、私の意見を伝える場でありますから、私が主でなくてはなりません。
イチローさんを主体にしていたら、それを読んだだけで満足してしまい、そこでページを閉じられコンテンツを読んでくれているあなたとの関係が終わってしまいます。
だから、イチローさんではなく、私が発言したり、私がいうことに価値を持たせなければならないのです。
こうした非効率的なやり方は、今の価値観で推し量ると無駄なようにも見えますし、実際世間一般的にみて無駄なことが多いですが、それが逆に複雑性をうみ、思慮に富んだり、何か考えさせられる世界にただ一つの滋味深いコンテンツになるのではないかと考えています。
つまり私もイチローさんと同じように、一見すると間接的でいて遠回りに見える直線的ではない、こうした遠回りをすることで誰にも真似できない、オリジナルなコンテンツが積み上がっていくかも知れないと今は考えています。
そして「シンプル」ではなく「複雑」で、「わかりやすさ」と「わかりにくさ」のちょうど中間あたりを狙い、誰にも真似できないコンテンツにしようとしています。
無駄なものは積み上げられるが合理化すると最後に積み上げられたものだけが残る
無駄、もしくは無駄だと思われるものは積み上げることができますが、合理的なものや効率的なものはどちらかというと余計なものは排除するという考え方をしますので、積み上げることはできません。積み上げられたものだけが残ります。
私は合理的な業界にいるけれども、行き過ぎた合理化、合理的な考え方はイチローさんと同じように、やはり嫌いですしそれをよしだとは思っていません。
真似されやすいものは誤解して広まりやすい
合理的なコンテンツはエッセンスの抽出に過ぎませんので、真似されやすく、誤解して伝わりやすい。
これまた前回の記事でもお話ししたように、真似されやすいものは本筋とはズレて人々に伝わっていくし、また広がりやすい一方で、価値が落ちやすい。
なんだかインターネット業界は経済的には潤っているように見えても、本質的に軽い業界だと思えるのももしかしたらこうしたところから来ているのかもしれません。
業界の構造上、人間的でいて本質的な価値を生み出しづらいのです。
逆に効率的でいて機械的な価値であれば生み出しやすいです。
>>>なぜ流行が生まれるのか?時代を超えて長く愛されるものと時代を象徴する流行の違いについて
イチローさんは現役を引退してもなお、その発言は様々な業界に通用する含蓄された素晴らしい発言が多いですし、今後は野球界に関わらず、おそらく様々な舞台でご活躍されるのだと思います。
私自身、イチローさんのような考え方は、今後求められてくるように思いますし、そうでなければならないと思うのです。
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