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アダムスミス曰く「下層の人々が豊かになってこそ、国は豊かになる」〜モラルが失われた文明社会について〜

「富を持つもの」はその資本を使い、国や役人と結託して法律や規制を自分たちの都合のいいようにかえ、あらゆる意味で「独占」状態に導くように働きかけていきます。

特に1990年代後半以降の日本の環境を見るとこれは明らかです。

それまで共産主義諸国との間で均衡をたもっていた世界情勢が崩れ、資本主義経済一辺倒の経済体制に入るとマネーゲームが加熱し、世界的に拝金主義とも言える様な体制が築かれました。

そしてこのマネーゲームが加速し、投資家や資本家、富裕層に有利な法律に書き換えていくことで世の中のバランスが崩れ人々の間から当たり前のことやそこにあるモラルが薄れていってしまった様に思えるのです※。

つまり富あるものに下層の人々が搾取され、人々の間からモラルが失われ、稼げればなんでもいい、どんな手段を使ってでも財を築いた人が正義であるという考え方が生まれてしまった様に思うのです。

>>>市場が熱狂状態にある場合、詐欺の発生率と複雑性が急激に増す

※もちろんモラルの欠如は、ビジネスの世界ではそれまでもあったけどマネーゲームが加熱してからは当然のこととしてあったモラルが激しく薄れていった印象を受けます。

「金儲けできればどんな手段を使ってもいい」と言ったような論法は側から見ればかっこよくうつるのかもしれませんがはっきり言って迷惑ですし単細胞でダサい主張だと思います。個人的に。

ただ現在のビジネス環境は、金儲けさえできれば基本的になんでもありな風潮があるので、現在のビジネスの現場で戦うということを考えるとあらゆる手段を使わないと戦うことが途端に難しくなります。モラルの欠如はやがてあらゆる階層にも及ぶというのはこれまでの歴史を見れば明らかです。

お金はモノやサービスを受けるための交換手段に過ぎない

本質をつけば、世の中で最も価値あるものと信じられている「お金」は「物」や「サービス」と「交換」するための手段の一つに過ぎません。

つまり、本質的な価値は「お金」にあるのではなく「物」や「サービス」にあるのです。

・・・が、今の世の中は、共産主義国が相次いで倒れて行ってしまったことを契機として、富こそが全てだ、お金を持っていれば豊かになれるというとんでもない勘違いを世界規模で起こしてしまっている様に感じます。

まるで金銀(今でいうお金)をため込むことが国を豊かにするとされていた16世期から18世紀の経済思想「重商主義」の様です(お金が大事じゃないと言っているわけではありません。お金はとっても大事です。ただそうした思想が加熱しすぎるのは良くないと言いたいのです)。

そして偏った富は、今の世の中においては弊害が生まれることが多い。

今の世の中はお金を回さなければ途端に不景気になってしまう脆さを兼ね備えているので、必要なところには出し惜しみすることなく投資しつづけなければ経済を維持できなくなってしまっています。

そして、それが富を持つものにお金が集中してしまうことで、実態経済にお金を回すことが難しくなり、どんどん世の中が不景気になって行ってしまう結果を生み出すのです(単純に世界的なお金持ちが悪いと言っているわけではなく、そのやり方を私は批判しています)。

>>>なぜ不景気になるのか?現在の金融システムの問題点とゴールドスミス・ノートの理論について

そしてこれが加速すると、ともすれば第二のヒトラー政権なる極端な思想が生まれてしまうということを私たちは心得ておく必要があります。

共産主義は資本主義(帝国主義)のアンチテーゼとして生まれた

もともと共産主義の思想は貧富の差の拡大を促していた経済思想(帝国主義や資本主義)のアンチテーゼとして生まれた経済思想であるという背景をもちますが、1990年代後半に相次いで共産主義諸国が倒れてしまったことにより、このお互いを敬遠し合う緊張感が失われバランスが崩れてしまったように思います。

そして今は、世の中が「共産主義は間違っていた。資本主義こそが正義」と極端な思想に傾いてしまい、勘違いしてしまっている様に感じます(資本主義は経済の発展を促しますし、私も資本主義の恩恵に預かっています。全てにおいて資本主義が悪いわけではないですが、バランスを失うと暴走してしまうのです)。

共産主義と資本主義の違いについてはリンク先の記事の冒頭部分にまとめてあります>>>ヒャルマール・シャハトの経済思想について「全ての局面において通用する経済政策や法則はない」

それは日本においても同じことで、1990年代以降のあらゆる法律は、とある政権下において「富を持つもの」に迎合し、大企業を優遇する法律に書き換えられ、大企業の利を守る様に様々なところで規制を加えていっている事に気がつきます(あまり公にされる事なく、また公にする事なく、政府関係者と深いパイプを持つ様々な業界でまるで手ぐすねを引く様にちょっとずつ都合のいいように書き換えられていっています)。

そして現在では政府役人と様々なパイプを持つ特定の団体が癒着しあい既得権益という甘い蜜を貪るようになってしまっています。

わかりやすい例で言えば、例えば国の繁栄をつかさどるのはいつの時代も「税」だとされますが俯瞰してみれば富裕層はそのコネクションを活かし経済界などから働きかけ「富を持つもの(高額所得者)」の税率が引き下げられていっていることが手に取るようにわかります。

富裕層の所得税に至っては半分に引き下げられ、株式投資に至っては税率が20%(一時期は10%)となんとも富裕層に有利な条件になっています。

所得税は現在の税制(2022年時点)では累進課税により最大で45パーセント程度ですので、一見すると「頑張っている人からそんなに税をとるなんて不公平じゃない?」とか、公平に税をとっているように見えるように感じるかもしれませんが、実はお金持ちはあらゆる手を使って様々な控除が受けられますので実際はかなり低い税率になります。

※ここでは詳しくお話ししませんが、税率ではなく、税の負担率で表すとこの辺りのカラクリがよくわかります。

その一方で、消費税や社会保険料などが分かりやすく上がり、高所得者層または富裕層の都合の良い様に作り替えられた法律を持ってして「富をもたないもの」が税を補填するというおかしな税制度になっていってしまっています(実は社会保険料だけ見れば、高所得者層も同じ様な割合で社会保険料を負担すれば、社会保険料を上昇させなくても社会保障費は賄えます)。

そして、だからこそ戦後最大の好景気を索引しているのにもかかわらず、実態は、富を持つものだけがさらに富を増幅させるといった様に、その恩恵を私たちが実感することができない社会になってしまっているのです。

そして歴史を見ればいつの世もそうした下層の人々の鬱憤がたまることで、世の中が不安定になり、極端なことを言えば革命が起き政権が倒れ、新政権や新しい国が生まれるということを連綿と繰り返してきているのです。

これはビジネスの世界にも同じように言え、大企業には必ず政府役人とパイプを持っている人物が大抵在籍していますから、経済界から働きかけ、いつの間にか大企業が有利になる法律に書き換えられていくのです。

アダムスミスの国富論について

よく自由主義経済(資本主義経済)について語られるとき引き合いに出されるのがアダムスミスの「国富論」です。

アダムスミスは経済学の古典「An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations(邦題:国富論)(1776年)」で「政府が経済に関与してはならない」「市場は自由にしておけ」と説いています。

ただ、何もかも「自由にしておけばよい」と言っているわけではありません。アダムスミスの言葉を借りるならば人々の間に「最低限の常識」と「当たり前の条件」というモラルが守られている前提条件があるならば「市場は自由にしておけ」と言うことになります。

つまり、一般的に広く解釈されているように、ただ単に何でもかんでも常に「市場は自由にしておけ」ばいいと言っているわけではなく、それ自体を特別推奨しているわけでもありません(国富論が自由主義経済の象徴の様に語られるのは時代背景を知らずして語られる完全なる誤読です)。

国富論は、ましてや「市場を自由にしておく」という一つの単純な経済思想によって経済的なあらゆる問題を解決しようとしているものでもありません(むしろ主張が矛盾しようが、その時々の状況に合わせて特定のルールを設ける必要があるというきらいさえあります)。

この点において現代の「国富論」は大きく誤読され誤解されているということになります。

※「大衆は常に間違う」というアール・ナイチンゲールの有名なことわざがあります。そして悪貨は良貨を駆逐していくのです。それらについては下記リンク先の記事にまとめてあります。

>>>【コラム】悪貨は、良貨を駆逐する(悪いコンテンツは、良いコンテンツを駆逐する)

技術革新と適切な分配によって国家は繁栄する

一般的には経済学の古典「国富論」は「神の見えざる手」という言葉だけが一人歩きし、自由経済の象徴の様に捉えられていますが、実際は全編を通して当たり前にあるモラルを守ることを前提とした上で、豊かさはそれぞれの専門性を持ち寄った分業による「技術革新」と、その結果として得られる富の「適切な分配」によってこそ生まれるものとしており、下層の人々が潤った結果として国家は繁栄するものであると述べられています(※1)。

つまり国が豊かになるには「技術革新」によって生産性を上げることが大切であり、それを下層の人々にもうまく「分配」することで豊かになるという論法で「国富論」は展開されていきます(考えてみれば当たり前のことです)。

繰り返しになりますが、かの有名な「国富論」は国を豊かにする基本原則として「技術革新」による「生産性の向上」と下層の人々にも富を行き渡らせる「適切な分配」が大事であり、その手段の一つとして「自由主義経済(資本主義経済)」をあげているのであり、諸手を挙げて「市場を自由」に見せかけ「当たり前にそこにあった倫理が失われた」現代のモラルハザード的な資本主義に傾倒しているわけではありません。

どうすれば下層の人々にも富が行き渡り国家は繁栄するのか?

例えば、アダムスミスは自著「国富論」で次のように述べています。

「下層の人々は、社会の大部分を占めている。社会の大部分の人々が豊かになることは、社会全体の隆盛と幸福のために欠かせないことである。そしてそれは社会にとって公正なことでもある〜国富論第一編第8章〜」

またついでなので先ほどの税についての例を挙げれば、社会全体が豊かになるために必要となる税についてはこうも言っています。

「あらゆる階層の人々が、それぞれの担税力に応じて納税すべきである。税は地代、利潤、賃金に対して課せられているが、このうちのどれか一つに偏ってはならない〜国富論第五篇第2章〜」

つまり、社会全体が豊かになるためには「あらゆる階層から公平に税を取ることが大事だ」と述べているのです。

アダムスミスは税を課す場合のルールとして「公平であること」「決め方が明確であること」「納税しやすいこと」「徴税コストが安いこと」を挙げています。

さらに国富論では「生活必需品への課税は、あらゆる階層へダメージを与えてしまう。しかし贅沢品への課税は経済社会への害はほとんどない(贅沢品にこそ課税すべき)」と記しています。

至極真っ当な考えの様に思えます。

この様に、国富論では産業革命や植民地政策が進む目まぐるしい時代変遷の中で、社会全体が豊かになるためにはどうしたらいいのだろうという視点を持って記されています。(経済学の古典で時代背景も複雑なので正しく読み解くには読み難い部分はありますが、内容としては社会全体が豊かになるためという論調のもと書かれています)。

国富論が発表された1776年は現代とは経済的な環境が違い基本的人権がまだ守られていない時代のものでもありますから、その多くは「貿易」と国富の関係、一部の商人と癒着し独占を許すことの弊害について記したものになります。

国や役人が特定の企業と結託し法律を書き換えたり規制したりするなどで肩入れをして権益を与え独占状態を生み出すことを批判するものとして「独占や(輸入)規制を撤廃して自由にすれば(結果的に)神の見えざる手に導かれて、いつの間にか社会の利益に貢献している」と述べられているのです(私の認識が間違っていなければその様に私は大学で教わり理解した記憶があります)。

国富論では、そうしたバラバラの角度からみたあらゆる主張を一つにつなぎ合わせて国家を繁栄させるためには「技術革新」と「適切な分配」が必要であると述べているのです。

独占は絶対悪である

では「技術革新(技術の向上)」と富が下層の人々(社会全体)にも行き渡る「適切な分配(適切に富を分け与える)」を行うにはどうすればいいか・・・、アダムスミスは、その一つの部分において、政府が企業や商人と結託して「独占状態に導くことは絶対悪」ということで、「政府が経済に関与してはいけない」ということを具体例を交えながらあらゆる角度から言及していっています。

技術革新による生産性の向上は下層の人々が賃金の上昇で豊かになることで勤労意欲と共に分業によってもたらされ、そこで生まれた富が適切に社会全体に分配されることによって国はもちろん人々の生活が豊かになっていくという論調で国富論は書かれています(アダムスミスのいう「分業」とはそれぞれが持ちうる専門性のような意味合いで使われています)。

そしてその中の一部、国が関与し「独占」状態を作り出すことを糾弾する部分において「神の見えざる手」という言葉が使われていくのです。

(「国富論」では下層の人々が豊かになってこそ、世が安定し国が繁栄するということが大前提となっています。繰り返しになりますがアダムスミスのいう「当たり前の条件」や「最低限の常識」は、現在のモラルハザード的な資本主義のことではありません。例えば序文で「我々文明人はもっとも貧しい人でも、原始人よりもはるかに豊かな消費生活を送っている。それは生産性を向上させ、生産物があらゆる階層に分配される秩序をつくってきたからである」と書いてあることにもみてとることができます)

そもそも「神の見えざる手」は原題では「an invisible hands(見えざる手)」であり、「神の」はつきません。

「神の見えざる手」という「キャッチー」な言葉を付け加えたのは翻訳者であり、意訳に過ぎません。

アダムスミスは独占を糾弾するものとして「神の見えざる手」というフレーズを使った

ではなぜ「神の見えざる手」が誤解されてしまったり都合よく援用されてしまっているのか。

それはそのフレーズが都合のいいように援用されてしまい、全体の一部分を抽出したものに過ぎないところに原因があります。

アダムスミスは国富論全体を通して複雑な経済の問題解決を図ろうとしているのであって、一部分だけを抽出するだけではその本来の意味を理解することができません。

そして経済学者のアダムスミスは(倫理学者でもある)、国富論でその多くを特定の企業に権益を与える独占状態について糾弾し、独占は悪だと繰り返し述べ「独占は自国の権益を守っているようで決してそうではない」と述べているのです。

これがいつの間にか都合よく解釈され「自由主義」を象徴し、さらには「自由主義」を推進するものとして「神の見えざる手」という言葉が引用され、「市場を自由にしておけば、やがて社会全体のバランスが取れるようになる」という、あたかも「現在のモラルハザード的な資本主義」が、国富論が主張する論調であるというふうに解釈されて行ってしまったのだと思います。

アダムスミスは、貿易に関して論ずる章の中で、商人はともすれば、政府役人と結託して市場を独占しようと働きかけるが独占は自国の権益を守っている様で決してそうではないと述べているのに過ぎません。

そしてそこで「(神の)見えざる手によって導かれ」・・・と言及しているのです。

つまりはややこしいようですが、アダムスミスはモラルが守られた社会であれば自由主義経済をよしとしていますが、政府や役人と結託して独占状態に導いたり下層の人々を苦しめるような政策は絶対悪であると国富論で主張しているのです。

そして何度も言いますが、この時代は現代のように基本的人権が守られておらず、政府や役人が一部の商人と結託して独占状態に導くことが頻繁にあり、そうした行為を糾弾するものとして「見えざる手」という言葉を使い糾弾したのです。

独占は自国の権益を守っているようで決してそうではない

なぜ「独占」が悪なのか?

例えば「「独占価格」は、市場においてもっとも高い価格となる。逆に「自由競争価格」は、市場において、もっとも低い価額に近いところにある。国富論第一編第7章」とするところにもみてとれます。

独占は富が特定の商人に偏る事になりモノの価格を不自然に操作するので、国全体の生産性を上げる事にはならず、国家の繁栄にもつながらないと言及しているのです。

独占状態を許すことは一見すると「自国の権益を守っている様に見えて決してそうではない」と言っておりむしろ独占状態は弊害であることの方が多いと言及しているのです。

例えば独占について、次の様な記述があります。

「「独占」はその国の経済を弱めるだけではない。「独占」の利益を享受した商人たちは、商人の本来の資質である「合理化」や「向上」の精神を失う。 〜国富論第4篇第7章〜」

そうした意味合いにおいて、そしてそれらを背景として国全体の生産性を上げるには政府は経済に介入せずに、特定の企業に有利なものにするのではなく、市場は自由にしておくべきだと説いているのです。

※1:アダムスミスは「最低限の常識」や「当たり前の条件」があることが前提で国富論を展開しており、。それらについては特別言及せずに「語るまでもない当たり前の倫理」にあたるものとして書き記しています。そして、それが誤解を招く要素になったり「国富論」をややこしくさせている原因の一つになってしまっています(当時の時代背景でいう「最低限の常識」や「当たり前の条件」は現在のそれとは違う意味や感覚を持つことがあります)。

※上記のことを基本思想として、「国富論」ではその多くは貿易、労使関係の規制についてあらゆる角度から提示されています。

アダムスミス曰く「下層の人々が豊かになってこそ、国は豊かになる」

「国富論」を読み解くと、その中心となる思想は「下層の人々が豊か」になり「国民全体が豊かにならなければ、国は豊かにならない」としていますから、語弊を恐れずにその内容を紐解いてみればあらゆる手段を用いて不公正な「独占状態」を許すことは経済活動にとって絶対悪であるということを手をかえ品を変え繰り返し述べられているものとなります。

だから国は特定の企業に権益を与えてはいけない、国全体を豊かにするためには個人の自由な経済活動を尊重すべきだと説いているのです。

現在の日本は、あらゆるところで政府や役人と癒着し、既得権益が横行していますから、アダムスミスの国富論と逆をいっていると言っても過言ではありません。

そしてそれが現在の貧富の差が激しい貧乏な日本をつくり上げて行ってしまったのかもしれません。

※1つの経済法則や方策によって経済問題の全てを解決しようとはしていず、個々のケースで柔軟に経済問題を解決しようと試みているところにも国富論の特徴があります。言ってみればツギハギの理論なのですが、それが一本の筋によって問題解決を試みることが当然とされている我々の感覚からすれば、国富論をややこしくさせていることの一つになるのかもしれません。

国富論は自由放任による金儲けを容認するものではない

ややこしくなったので話をまとめます。

まず国富論は近年広く解釈されているような自由放任を容認するものではないし、金儲けこそが正義だと言ったようなモラルを失った金儲け主義を主張するものではないし、ましてや助長するものでもありません。

国富論はどうすれば国が豊かになるのかを当時の経済社会の問題をひとつひとつとりあげて、それに対して、様々な観点から各々の最善の方法を説いたものです。

そして国富論の特徴は複雑多岐にわたる経済問題を近年見られるような一つの経済原理や原則で解決しようとしていないところにあります。

現実に即し、個々のケースで柔軟に問題解決を図ろうと試みているのも国富論の特徴の一つです。

そしてシンプルな法則で問題解決を試みていないかららこそ、その主張に対して各所に矛盾を孕んでいることも国富論の特徴でもあります。

国富論全編を通して共通している思想やテーマ

国富論全編に共通している思想は、社会全体を豊かにする「適切な富の分配」を行うためにはどのようにすればいいのかです。

国富論では下層の人々が豊かになってこそ、国が豊かになるという当たり前の原理原則を説いているものになり、例えば国富論の第1篇第8章では、

「下層の人々は、社会の大部分を占めている。社会の大部分の人々が豊かになることは、社会全体の隆盛と幸福のために欠かせないことである。」

と記述されていることからもそれはわかります。そしてそれには社会全体の労働者に対しての適切な分配が必要であり、労働賃金の上昇が大事であると述べています。

「労働の報酬が豊かになれば、子どもの成育条件が改善され、人口は増える。そして、庶民の働く意欲が増進し、勤勉な人が増える。〜国富論第一編第8章〜」

賃金が上がり、労働の報酬が豊かになれば、子供の成育条件(つまりは教育)が改善されます。そして下層の人々が豊かになると人口が増え、技術革新が起き、より国を豊かにしていくということを主張しているのです。

つまり富の適切な分配と技術革新が互いに関与し合うことで、社会全体が豊かになるという当たり前の原理原則を具体例を交えながら論じているものになります。

そうした、国民全体が豊かになるためにはどうしたらいいのかを説いたものが国富論であり、それが国富論の趣旨で単に自由放任による金儲け主義を主張したものではありません。

生産性を上げることと富の適切な分配こそが国の繁栄につながる〜神の見えざる手は国富論全体の主旨ではない〜

先に述べたように、アダムスミスは、国が豊かになるための基本原則として生産性を上げることと適切に分配することだとしています。

そして生産性を上げるにはそれぞれの分野で高い技術を持った分業が必要であると述べており、豊かな社会とは高度な分業が確立しなければ成すことはできないと話が展開されていきます。

そして高度な分業を確立するためには「公正な取引」による「交換」が必要であり、「公正な取引」とは何か、「公正な取引」をするにはどうすればいいかが述べられており、それらをひとまとめにしたものが国富論となっています。

ここは本当に繰り返し言いたいところですが、よく誤解されている個人利益を追求することがやがて社会を幸福に導くというフレーズ「神の見えざる手」は章仕立てで展開される全体の一部分に過ぎず全体の主張を説くものではありません。

私たちが教科書で習った「神の見えざる手」は国によって規制されていた独占貿易と輸入規制を批判している箇所に出てきます。

「人は自己の利益のために最大限の研究と努力をする。それが結果的に神の見えざる手に導かれて、いつのまにか社会の利益に貢献している。〜国富論 第4篇第2章〜」

大事なことなので繰り返しになりますが、有名な神の見えざる手というフレーズが出てくるのは独占貿易と輸入規制を批判している箇所であり国富論の全体の一部分に過ぎず国富論の主旨ではありません。

「商人は自らのビジネスにおいて独占を目指すが、国がビジネスに関与して独占や共謀により利益を得させると特定の業者に富が集中するだけで必ずしも社会全体の利益にならない。

それよりも、国民に自由にビジネスをさせた方が人々は自己の利益のために研究と努力をするので結果として国のためになる。」

そうした論調で語られていきます。

これまた繰り返し言いますが、先に言ったように国富論は、一つの経済原理や原則で問題を解決しようと試みているものではなく、全体を通して技術革新と適切な富の分配によって国が豊かになるのであり、各々のケースで様々な角度から問題解決を試みているものだからです。

つまり全体を通して理解しないと、それは正確に解釈できないものとなっており、だからこそ全体を通してアダムスミスの言いたいことを理解し、さらに前後の文脈からそれが何を指しているのかを内容を読み説く必要があり、一部分だけを抽出すしたり、読みこむだけでは内容を取り違えて理解してしまう恐れがあります。

国富論は社会通念状のモラルがあることを前提としている

ただし、これらも単に自由放任による経済に任せるのではなく、社会通念上のモラルを守ることを前提としてならばという条件がついています。

アダムスミスのいう、自由経済は現在のような金を稼げれば何をしても構わないと言ったような、モラルを失った現在の資本主義ではありません。

あくまで、モラルがきちんと守られた社会で、生産性を上げ、そこで得られた富を適切に分配するという当たり前の倫理観が守られるならばということです。

そしてそうしたことが具体例とともに、つらつらと述べられているのが国富論なのです。

現代は、モラルが失われた世界の資本主義

現在の社会はモラルを失った、稼げればなんでもありというモラルハザード的な資本主義です。

資本主義が暴走してしまった社会と言ってもいいと思います。

実際、富を持つものや上場企業の社長は、「ビジネスはなんでもあり」と吹聴する時代です。(上場企業は会社は株主のものですから、真意はともかく、そうした発言をするのは仕方のないことなのかもしれませんが、下層の人々にそういうものなんだと誤解して伝わることで、どんどんモラルが失われて行っているように思います。そして歴史を見ればそのいく着くさきはいつの時代も破綻であり破滅への道を突き進んでいっているということになります)

まあ、ビジネスの現場に身を置くものとしてはそれが実態です。

卑怯な手や卑劣な手を使おうが、富を引き寄せたものが正義とされる風潮があるからです。

ただ、私はやはりアダムスミスのいうように最低限のモラルは必要なのではないかと思います。

確かに正攻法で勝てるほど、現代のビジネスは甘くないし見方によっては「ビジネスはなんでもあり」ともみてとれる世界だと思いますが、モラルが失われると経済はバランスを失い、それは下層の人々にもは波及し、やがて社会全体が疲弊していきます。

だからこそ・・・

やはり最前線に立ち業界を索引していくものがそうした誤解を招くような発言をしてはならないと個人的に私はやはり思いますし、それを率先して行ってはならないと思うのです。

モラルというものが社会的責任の大前提にないと社会はたちまち崩れて行ってしまい原始的な社会になってしまうからです。

特に影響力を持ち人々の前に立つものは、注意が必要であるように思います。

モラルが失われたら、もはやそれは文明社会ではない

人が人である以上、あらゆる業界でモラルはやはり大事で、モラルが失われるとバランスが崩れてしまい、戦争を引き起こし(それが物理的なものであるかどうかは別として)、お互いが疲弊し最終的には自滅していくということを過去、人類は何度も繰り返し繰り返し体験してきています。

モラルが失われてしまったら、それはもう文明社会ではありません。原始的な社会です。

そして、モラルが失われた世界では商人主導の金儲けだけが全てとなり、専門性を向上させることができないばかりか社会的秩序をたもつことはできません。

今の時代の金儲け主義は、まるで植民地政策時代の領土を広げる政策が現代に置き換えられているようにさえ感じることもあります。

その辺りの社会的責任を、富を持つものは今一度、検討するべき時にきていると思います。

繰り返しになりますがアダムスミスは「国富論」の序文でこう言っています。

「我々文明人はもっとも貧しい人でも、原始人よりもはるかに豊かな消費生活を送っている。それは生産性を向上させ、生産物があらゆる階層に分配される秩序をつくってきたからである〜国富論序文〜」

現代は文明社会でありながら、文明的な何かが失われ、原始的な社会に戻ろうとしているような矛盾を抱えているように思えてなりません。

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