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歳を重ねることの意味と、その可能性について

街を歩けば、クリスマスのイルミネーションで彩られている12月。

僕は個人的にこの季節が好きです。

まるで晩鐘が響き渡るような様々な余韻を含んだ季節だと思うからです。

街中に一歩踏み出せばこの季節特有の色や音楽、それに街中に溢れるにおいにつられて様々な思い出が走馬灯のように駆け巡ります。

街を歩いていると、時折胸をギュッと締め付けられるような息苦しさがあったり、心のどこか奥の方が温かい気持ちで満たされたり、あの人は元気にしているかな?と頭の片隅で、「あるひと」のことを考えたりします。

多分、それは僕が歳を重ねて今様々な思いを胸に抱えて生きているからなのでしょう。

寂寥感ではないですけれども、僕の胸に刻まれた何かが、時折ふっと僕を記憶の彼方へと誘い、今そこにある厳しい現実を忘れさせてくれます。

だから、僕は歳を重ねるのはあながち悪いものではないなと思うのです。

20代の頃に想像していた世界とは違う

自分が20代の頃に思い描いていた夢を叶えたわけではありませんが、今僕は、それに近い生活を送っているわけで、でもやはり想像していた未来とは違い、何かこう、現実のものとして手に入れると、それほどでもない、夢見ていたほどではないなと思う気持ちが沸き起こってきます。

多分、それらは想像の中、人々の頭の中だけにあり、軽くファンタジーを伴っている現象なのだと思います。

だから、これから僕が叶えることになる、「これからの夢」も実際に手に入れたら、もしかしたら、それほどでもないと思うのかもしれません。

 

また、自分が年を重ねてみると、僕が10代、20代の頃に思い描いていた「歳をとる意味」とは違った見方ができるようになりました。

実際、当時20代前半の僕からして見れば、一般的に世に溢れる30代(しかも後半!)なんておじさんで、どこか社会に揉まれて疲れきった「オヤジ」たちを想像していました。

でも実際、自分がその年齢になってみると、どこか、希望が見え隠れする、必死に現実の社会に立ち向かっている方も多い。

実際僕もその中の一人だったりしますが、なんというか、20代の頃には感じられなかった、そしてみることのできなかったある種のたくましさを感じとることができるのです。

もちろん、この年になるといろいろな意味で疲れ切っている方もでてきます。

不幸にもお別れをする方もたくさん出てきます。

でも、それも含んで、思い出となり、明日への糧となり活力となり「ぼく」という人間に彩りを加えるのだと今、感じています。

 

20代の前半。

当時は今ほどインターネットなんて普及してはいませんでしたし、スマートフォンというデバイスが少しずつ世の中に浸透してきつつあった時代でした。

もちろんインターネットという道具は存在していたし、インターネットは一般的に利用されていましたが、それはあくまでパソコンの中、デスク上に限定されていました。

ガラケーでiモードなんてサービスもありましたが(何と現在サービス終了!まさに10年ひと昔!)、パケット通信料というものが存在したり、今ほどいつでも簡単に手軽にインターネットを利用できる時代ではありませんでした。

もちろんパケ放題という定額制のサービスもありましたが、一般的には、疑問に思ったことを今ほど簡単かつ手軽に身近なものとして調べられる時代ではなかったのです。

それに、信じられないかもしれませんが、僕が高校生の頃は月の電話料金が70,000円を超える(今考えてもすごい数字!)友達もいたし、今考えれば本当にすごい時代だったと思います(今だったら基本使用料さえ払っていればネット回線を使えば通信料は無料です(笑))。

・・・すごい時代ですね。

歳を重ねることの意味について

もちろん年を重ねるとできないことも増えてきます。

それは体力的な問題もあるでしょうし、もの覚えが悪くなったり、だんだんと「生」としての陰りが生まれてきて、できないことが増えてきてしまうのです。

僕自身、20代と比べると目に見えて体力がなくなったなと思うことが多いですし、それ以外でも体の衰えを感じる瞬間があります。

もちろん、20代の頃に比べると運動量が減っているということも原因の一つでしょうが、それでもやはり、衰えを感じることがあります。

 

20代の頃には考えられないような病気を患ったりもします。

実際、僕も、今年僕にとって身を悶えるような大きな病気にかかりましたし、不幸にも様々な病気を患い命を落としてしまう方もいらっしゃいます。

それは決して他人事ではなく、精神的であっても肉体的であっても少しでも気を抜けば、すぐそばにあるものとして感じることができます。

20代の頃の無理がたたって、今、それが体に現れたり、どんなに頑張ってもその努力が報われることなく、精神が疲弊してしまってしまう方もいます。

 

貧乏は一生の中で経験したことがいいギフトの一つ

また、考え方も変わるようになりました。

例えば、貧乏を経験しない人は不幸だと思うようにもなりました。

貧乏は人の一生の中で経験したことがいい「物語の一つ」だと思うようになったのです。

むしろ貧乏は人の一生の中で神様から贈られる人に厚みを加える特別なギフトだと思うようになりました(本当に、神様がいるかどうかはわかりませんが)。

貧乏は決して悪いことではありません。多くの場合、そこには様々なギフトが含まれるし、当たり前の毎日に感謝の気持ちを持てるようになります。

逆説的だけれども、もちろん貧乏は経験しない方がいい・・・とは思いますが、特に若い頃に貧乏を経験するとその後の人生において多くのケースで人としての深みが生まれるように思います。

僕自身も貧乏を経験したからこそ言えるのですが、その後に贈られるギフトは他の何ものにも変えがたいほど美しいものとなりました。

貧乏を経験すると「気がつかなかったこと」に、「気がつくこと」ができるようになり、当たり前に流れている日常に感謝ができるようになります。

決して当たり前なんかじゃないと。

もちろん、ここでいう貧乏は、何も金銭的でいて物質的な貧乏に限りません。

金銭的でいて物質的な貧乏だけではなく、肉体的、精神的な貧乏も含まれます。

 

自分自身の活動的限界について

30代も後半に差し掛かると今まで理解できなかったことが、理解できるようになったり、理解できたことが、突然理解できなくなったりします。

例えば人生は短いと言われても、20代の僕にとっては今一つピンときませんでしたが、その言葉の意味が30代も終盤を迎えると、ぼやけて曖昧なものではなく、はっきりと輪郭を帯びたものとしてわかるようになってきます。

健康でいられる年齢、元気に動ける年齢、それを考えると、さらに短く感じられるように思いますし、時にそれについて考えると焦燥感を覚えたりします。

様々な方との出会いと別れを繰り返す中で、僕は、あとどれくらい元気でいられるのだろうなどと、思ったりします。

今のように活動的に動けるのはもしかしたら、そんなに長い時間ではないのかもしれない。

そう思ったりします。

そんな活動的限界について思いを馳せることもあります。

 

想像的人生の持ち時間は10年

映画監督の宮崎駿さんは映画「風立ちぬ」の中でカプローニに自身を投影させ「想像的人生の持ち時間は10年」と言わせています。

宮崎駿さんご本人が言う自身のピークは、30代後半から40代後半の10年間だった※とスタジオジブリの小冊子「熱風 2014年7月号」で語っています。

もちろんそこには、つまりは自分自身が感じるピークと、周りが思う人生のピークには隔たりがあります。

宮崎駿さんは風立ちぬ制作後に自身を振り返り、自身の最大のピークは「となりのトトロ」だったと語っていますが、それは周りが思い抱く印象と違うように思いますし、「となりのトトロ」が素晴らしい作品であることには違いありませんが、逆にそれ以降の10年間の方が一般的な記憶や評価としては高い作品が多いように思います。

監督作としては、宮崎駿さんご本人が語る想像的人生の持ち時間の作品は、だいたい「ルパン三世 カリオストロの城 1979年(38歳)」から「未来少年コナン 巨大機ギガントの復活1984年(43歳)」「風の谷のナウシカ 1984年(43歳)」)「天空の城ラピュタ 1986年(45歳)」「となりのトトロ 1988年 (47歳)」までの10年間。「となりのトトロ」の翌年1989年(48歳)には「魔女の宅急便」や1992年(51歳)の「紅の豚」が続く。いずれも映画公開年

ただ、現実的なものとしてこの言葉を受け入れれば、確かに様々な著名人を見ていても、ある時期を境にした「10年間」は想像的人生の持ち時間と言えるほど貴重な時間であることを窺い知ることができます。

今はウィキペディアなどがありますから、気になったらある人の人生について調べてみてください。意外と面白い発見をすることができます。

もちろん、全ての人に当てはまるわけではなく、それを乗り越えて活動的な方もいらっしゃいますが、多くの人はある時期を境に10年間を人生のピークとしていることがわかります。

そう考えると、僕の人生の持ち時間はいつになるのだろう・・・と考えたりします。

歳を重ねることの可能性について

30代も終盤に差し掛かり、僕は20代の頃には感じられなかったいろんなことを感じられるようになりました。

もちろん、その経験全てが美しいとは言いません。

世の中は綺麗事ばかりで通用するほど甘くはないし、汚いことや、苦しいこと、人を裏切り、裏切られるような経験もたくさんしてきました。

その中で、連絡が途絶え、消息不明になった友人、仲間たちもいます。

それでもなお、歳を重ねることは美しいと思うのです。

多分空っぽの人生に「思い」の「数」が増えてくることが、人としての厚みになり、まるで熟成したコーヒーの味を楽しむようなほろ苦い滋味深さを生み出すのだと思います。

出会いと別れ、それに様々な経験が、僕に刻み込まれ、シワが生まれ、それでも、秋を彩る紅葉のように、そこに美しさを残す。

それが人としての深みになり、自然と振る舞いに現れるのだと思います。

 

実は、つい最近、昔の人に会いました。

僕が「お久しぶりですね」と言うと

その人は「もう忘れられていると思っていました」そう言いました。

私は「覚えていますよ。忘れるわけないじゃないですか」そう言いました。

短い会話でしたが、昔に戻ったような、そんな気持ちにさせられました。

 

「ありがとう」
「さようなら」
「お元気で」

昔は、素直に言えなかった言葉も、前ほど照れを隠すことなく言えるようになった気がします。

それは僕が歳をとり、当たり前を日常のものとして受け入れるのではなく、ごく当たり前の日常を特別なこととして受け入れるようになったからなのかもしれません。

そして、それは僕が年を取ったから感じられることなのだと思います。

そう考えると、歳を重ねることも案外悪くないなと思うのです。

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