何かを手に入れるということは何かを失うことなのかもしれない。
そう思うことがあります。
思えば、私が学生時代の頃からそんなことを考えていた気がしますが、社会に出て大人になればなるほど、その思いは色濃いものとして現実の事象として、そこにあることのように感じます。
何かを手に入れるということは何かを失うことなのかもしれない。
そう思うことがあります。
思えば、私が学生時代の頃からそんなことを考えていた気がしますが、社会に出て大人になればなるほど、その思いは色濃いものとして現実の事象として、そこにあることのように感じます。
昨晩、MacBookを充電器に繋いでおいたはずなのに何故か充電されていない・・・。
充電器に繋いでおいたのに外出先ではじめてMacBookを開いてみると、ディスプレイにバッテリー不足で充電してくださいの表示・・・。
あなたもこんな経験ありませんか?
実は今回同じような経験を2度続けてし、Appleサポートに問い合わせたところ回答をいただくことができました。
私のように外出先で同じような状態になってMacBookが使えなくなってしまって困ってしまっている方もいらっしゃると思いますので緊急時の対処法とともに内容をシェアしたいと思います。
※以下の動作を行ったとしてもファイルが壊れてしまうなどの問題は起こらないかと思いますが、対処する際は(特に緊急時の対処法については)くれぐれも自己責任でお願いいたします。またノート型のMacに問題が発生していなくても本当に本体側のバッテリーがなくなってしまっている場合は緊急時の対処法を利用しても充電器に繋がない限り回復しませんのであらかじめご理解の上読み進めてください。
僕は普段、Amazon musicで音楽を聴いているのだけれども、ふと思い立ち、最近はApple Musicで音楽を聴くことにしています。
僕は音楽をリピート再生して何度も何度も同じ曲を繰り返し延々と聞くことが多いのだけれども(違う曲が流れると意識がそちらに行ってしまい戻って来れなくなってしまうことがあるからです。仕事の時はあくまで集中力を保つためのBGMとして聴いているので感傷に浸る必要はありません)そんなもんだから、Apple Musicでどうしたらリピート再生できるのかわからず思わず調べてしまいました。
そしたら、まあわかりづらい・・・。やり方を覚えて慣れてしまえばなんてことないのですけどもね。
僕のようにApple Musicでリピート再生の仕方がわからない方もいるかと思いますのでちょっとシェアしたいと思います(こんな単純なこともわからないんだと笑われそうです(笑))。
なんだか世の中がややこしくなりすぎている気がします。
多分、数多くのメディア(媒体)が、商業的な力によって私たちを混乱させているからなのでしょう。
今の時代、あらゆる情報に対してすぐにアクセスできますし、人々が気になることやトレンドなどの表層的なものはデータの蓄積によって可視化する事ができますからそれが余計人々を迷わせているのかもしれません。
お気づきの方もいるかも知れませんが、私は最近「装い」について調べています。
それも、時代を超えて脈々と愛されてきた男性の「装い」についてです(女性の「装い」は複雑で難しく、いまひとつわかりません)。
もちろん「装い」に興味があるから調べているわけですが、ただ、単純に「装い」について興味があるからというわけではありません。
そこから多くのことを学び取ることができるからです。
調べれば調べるほど「装い」から学べることは本当に多いと思うのです。
特にクラシックなもの、つまりは脈々と続く古典的な「装い」から学べることは本当に多く、基本ともいうべく一流の「装い」から学べることは本当に多いと思います。
アントニオ・ガウディのように起源に戻ること、原点に立ち返ることは本当に大切だと思います。
>>>アントニオ・ガウディ曰く「独創性とは起源に戻ることである」
「誰かと比べているうちは一流ではない」と言われたことがあります。
その言葉の裏には、誰かと比べるということは、まだその人自身の人生を生きていないということであり、本質的に人生を楽しんでいないという思いが潜んでいるのかも知れません。
確かに、本質的に人生を楽しんでいる人を見ると、誰かと比較しているようには感じられず、できるだけ「俗」から離れ、基本や礼節を重んじながらもその人の経験から学んだ尺度で生きているように思います。
「俗」には、人間の様々な思惑が働いており、流行があったり、何者かの手によって支配され常に動かされている状態を指しますから、真に人生を楽しめているかというとそうではないという見方もできます。
もちろん人間ですから、完全に他人と比較せずに生きていくのは難しいでしょうし、今の時代、一人だけ「俗」から離れ仙人のように暮らすのは難しい。
よっぽどの経験値を積まない限り完全に「俗」から離れることは到底無理な話だと思いますが、ある種自分の人生を生きている人は、できるだけ「俗」と距離をとった生き方をしているように思います。
だからそういう考え方も一理あるなと思うのです。
私はまだ、誰かと比較したり、誰かのことを羨ましがったりする気持ちがありますから、そういう意味ではまだ本質的な人生を楽しんでいないのでしょう。
昨日なんとなしにTBS系列のニュース番組「News23」を観ていたのですがイチローさんが出演されていました。
私はイチローさんの考え方が好きで、目についたインタビュー記事などは読み漁っているのですが(偶然見つけた記事ばかりで追い求めたりはしていません)、イチローさんの野球に対する考え方は思慮にとみ、野球はもちろんビジネスの現場でも流用できますし、ひとつひとつの発言に言葉には言い尽くせないほどの価値があると個人的に思っています。
多分、ご自身で考えて発言されているからなのでしょう。
私は取り立てて野球が好きというわけではありませんが、イチローさんは何か他の野球選手とはカラーが違うように思えますし、また、真面目なお人柄が現れていて1つの質問に対してものすごく真剣に受け答えをされている印象を受けます。
それこそ1つ1つまず質問の内容を噛み砕いて、一度飲み込んでから、自分の経験と照らし合わせて発言をされている印象を受けるのです(私もつくづくそうでありたいなと思います)。
もちろんプロですから(現役は引退されているので「プロでした」というのが適切かと思いますが、失礼に当たると思いますので「プロですから」と言っています)パフォーマンスの意味合いを含む発言をされている印象を受けることがありますが、けれどもそのほとんどは、イチローさんにしか答えられないし、語弊を恐れずに言えばイチローさんの頭にしかない考え方であり、だからこそ深みのある発言ばかりである印象を受けます。
なぜそう思うのかと言えば、常にインタビューでお答えになる内容、そして発言が一貫しており、言葉の節々を繋いでいくと一つのイチロー流という考え方が表面に浮かび上がってくるからです。
なぜ流行が生まれ、なぜ流行が去っていくのだろうと不思議に思ったことはありませんか?
流行はその時代を生きる人々の気分や雰囲気によって決まりますから、その時代にウケるものは、そのまま人々の気分や雰囲気を象徴するものであると言っても過言ではありません。
言葉を変えれば、流行はその時代を象徴するものと言ってもいいでしょう。
これについては、ファッション業界やアパレル業界のことを勉強すると分かりやすいように思います。
今回は、ファッションを題材にして時代を象徴する流行について、流行はなぜ生まれ、なぜ流行が廃っていくのかということをお話しし、時代を超えて長く愛されるものと時代を象徴する流行の違い、それにそこから派生して生まれるものや様々な誤解や問題などについてお話ししていこうと思います。
これだけでは何を言っているのか分からないかもしれませんが、最後まで読み進めていただければ、私が何を言いたいのかご理解いただけると思います。
世の中はどこもかしこも効率化に向かって進んでいます。
大きな時代のうねりのようなものですから、この流れは結局行き着くところまで向かうのでしょう。
効率化ときいて抱くイメージは人それぞれだと思いますが、私の個人的見解としては効率化もいいけれども、今の時代の雰囲気の効率化は効率化と同時に何か人間的でいて大事なモノを失っている気がしてなりません。
私の語彙力では表現するのが難しいですが今の効率化は「暖かい」効率化ではなく、「冷たい」効率化の色を帯びているような気がするのです。
そしてその「冷たい」色を帯びた効率化は人間的でいて大事なモノの隙間にそっと忍び込み、気がつかないうちに私たちの生活を静かに蝕んでいるような気がしてならないのです。
私はその何か人間的でいて大事なモノを「遊び」や「余白」とよんでいますが、仕事においてもプライベートにおいても本質的に新しいものは「遊び」がないと生まれないモノだと考えているため、今の状況をとても深刻な事態であると捉えています。
街を歩けば、クリスマスのイルミネーションで彩られている12月。
僕は個人的にこの季節が好きです。
まるで晩鐘が響き渡るような様々な余韻を含んだ季節だと思うからです。
街中に一歩踏み出せばこの季節特有の色や音楽、それに街中に溢れるにおいにつられて様々な思い出が走馬灯のように駆け巡ります。
街を歩いていると、時折胸をギュッと締め付けられるような息苦しさがあったり、心のどこか奥の方が温かい気持ちで満たされたり、あの人は元気にしているかな?と頭の片隅で、「あるひと」のことを考えたりします。
多分、それは僕が歳を重ねて今様々な思いを胸に抱えて生きているからなのでしょう。
寂寥感ではないですけれども、僕の胸に刻まれた何かが、時折ふっと僕を記憶の彼方へと誘い、今そこにある厳しい現実を忘れさせてくれます。
だから、僕は歳を重ねるのはあながち悪いものではないなと思うのです。